たたずむ影

十森克彦

第1話

 月明かりの下で、そいつは少し寂しげな笑いを浮かべて、立っていた。見覚えのある、白いタキシードを身につけて少し半身にポーズをとっている。どこで見たのだろうか。そのポーズ、その服装、何よりも、その顔。

 それは、まぎれもなく、僕自身の姿だった。


「いらっしゃいませ、いかがでございますか」

 僕が声を出すと、呼応するように、あちこちで同様の声が上がる。百貨店の和菓子売り場が僕の職場だ。高校を卒業してすぐに就職したから、もう5年になるだろうか。本社の工場勤務から始まったが、こうして店頭に立って、お客様と直接やりとりしているのが自分には合っているようだ。

「あら、これなんかどうかしら。あの方、甘いものがお好きだって仰ってたけれど、こんなのだったら喜んでくださるんじゃないかしら。ある程度日持ちもするみたいだし」

 品のいい婦人がガラスの陳列ケースにある饅頭のセットを見ながら、やはり品のいい、初老の紳士と話している。夫婦だろうか。誰かのところに行くのに、手土産に和菓子でも、と言う感じなのだろう。よくあるパターンだ。

「こっちの方もおいしそうねえ」

 今度は隣に並べてある羊羹を指している。

「どうもありがとうございます」

 こういう時は、お客様が商品を選び終えるまでは待つしかないが、とりあえず、声をかけておく。接客の基本だ。

「どちらにしようかしらねえ」

 迷い始めていたので、僕がさらに声かけをしようとすると、

「こちらの羊羹とお饅頭でしたら、お詰め合わせにすることもできますよ」

 いつの間にか真横に出てきていた他の店員が先に声を出した。

「あらそうですか、じゃあその詰め合わせでお願いします」

「お熨斗の方はいかがなさいますか」

「無地のしで結構です」

「かしこまりました。すぐにご用意いたしますので、あちらのレジの方でお待ちください」

 スムースで丁寧なやりとりだった。僕は途中で割り込まれたのが多少不快ではあったが、店としていい対応ができたのだから文句は言うまいと思い、そのお客様の背中に向かって

「どうもありがとうございました」

 とお辞儀をした。

 このところ、こんなことが増えていた。僕のタイミングが遅いのだろうか。一応サブチーフという役職なので、他の店員たちが気を遣っているのだろうか。

「どうもありがとう」

 コミュニケーションはとっておかないと、と思ってその店員に向かって声をかけた。ところが、彼女は聞えなかったのか、反応せず、僕の横をすり抜けて別のお客様の対応に出てしまった。店員は全部で5名とアルバイト学生だけの小さな店舗だったが、皆仲が良くて、和気あいあいとした雰囲気のいい職場だったはずだ。接客対応をしている時にはきちんと笑顔が見えるのだが、お客様の目がないところではずいぶん表情が暗い。近いうちに店長と相談して、食事会でも計画してみようか。

 

 そんなことを考えているうちに、僕の退勤時間が来た。今日は早番だったので、閉店よりも1時間前に帰れる。何となく気まずい思いを持ちながら、

「じゃあ、お先に失礼します」

 と声かけをして店舗を離れる。やっぱり皆反応がない。特にお客様がたくさんいて接客の追われているという状況でもないのに、この雰囲気はまずい。そんなことを考えてもやもやしながら、僕はバックヤードに出て、更衣室に向かった。明るく華やかな売り場と違って、余計な装飾もない分、薄暗く感じる。

「おつかれさまです」

 すれ違う人にあいさつをするが、返事は返ってこない。まだ閉店前で皆忙しいんだろうか。それにしても、あいさつくらい、返してくれたっていいのに。いつにもまして寂しい気分になりながら、自分のロッカーを開けて白衣を脱ぐ。更衣室と言っても上着を脱いで白衣を着るだけなので、廊下にロッカーが並んでいるだけだ。まるで納骨室かなにかみたいだな。無機質なその風景がそんな風に見えるのも、気分が晴れないからだろうか。


 僕はため息をつきながら従業員通用口を通って退勤した。そろそろ日が沈みかけている時刻だが、繁華街の中にあるためにある意味で昼間よりも明るい。連れだって歩いている人たち、待ち合わせをしている人たち、こんな時刻からもう半ば出来上がっている人たち。いつもながらこのあたりは賑やか過ぎて、特に独り身の僕には居心地が悪い。こんなにたくさんの人間が歩いているというのに、知り合いがただの一人もいないというのは不思議なくらいに寂しい。


 地下鉄の駅の上はシティホテルになっていて、ショーウインドウには純白のウエディングドレスが飾り付けられて展示されてある。既視感のあるそのドレスを見ながら、僕はなんとなく物悲しい気持ちになったが、疲れているせいか、その既視感の正体を思い出すこともないまま、改札口への階段を降りて行った。町で笑いさざめく人々と対照的に、地下鉄に向かう人々の顔はどれも疲れ果てていて、なんだか墓地に向かっているように思われた。

 通勤ラッシュがそろそろ始まろうという時刻だったが、電車の中では誰も彼もがスマホの画面だけしか見ておらず、何百人という人がひしめき合っているというのに、互いの存在を認識し合うことすら、なさそうだ。いつもながら、この孤独感にはぞっとさせられる。これなら、山の中にたった一人でいる方が、よほどましじゃあないだろうか。

 地下鉄を乗り継いで最寄りの駅で降りると、どこにも立ち寄らずにまっすぐに一人暮らしのマンションに向かった。職場のある繁華街からそう離れているわけではないのに、このあたりまで来ると嘘のように静かで、人通りすら、まばらになっている。考えてみれば、この地上であんなに賑やかに人が集まっている場所なんてそうそうあるものじゃあない。僕は想像し、そのはかなさがとても寂しいものに感じられた。

 今日はどうも、いやにメランコリックになっている。


 当然のことながら真っ暗な自宅に、ありったけの明かりをつける。そう広くない室内を人工的な光が満たした。室内に吊ってある洗濯用のロープに上着をかけると、とりあえず、そのままベッドに横になる。外は日も暮れて、暗くなっていたが、昼光色の蛍光灯で照らし出されているはずの室内の方が、薄暗さを感じた。

 リモコンをとって、テレビの電源を入れたが、画像が乱れてまともに写らない。そういえば、最近調子が悪くて、買い替えを考えていたのだった。仕方なく、呆然としたまま室内をただ見回す。どこで買ってきたのかも思い出せない土産物のオブジェが、半ば壊れたままで埃をかぶっている。いつからここで暮らしていただろうか。よく分からなくなるくらいに、僕自身と馴染んでしまっていた。ただ、この部屋のことで何か大切なことを忘れているように思ったが、思い出せなかった。

 しばらくそうしているうちに、無性に喉が渇いたので冷蔵庫を覗いたが、めぼしいものは何もなく、仕方がないので何か飲み物でも買いに、散歩がてらコンビニにでも行こう、と僕はのろのろ立ち上がった。それにそもそも、夕食もまだ食べていなかったので、ついでに弁当でも買ってこようか、とも思った。


 自宅でぼんやりとしている時間が意外に長かったようで、外に出てみると、すでにずいぶん月が高くに上がっていた。コンビニで買い物を済ませ、近くの公園のところまでぶらぶら戻っていくと、道の真ん中にたたずむ、白い人影があった。他には誰も、いない。

「誰だ」

 僕はそれが僕自身であることに気づきながら、他の言葉を探しあぐねた。自分自身に対して誰だ、と問うのはおかしなことではあるが、それ以外には言いようがない。確かに僕だけれども、何故そこに立っているのかが理解できない。

 そいつは僕の質問には答えずに、いっそう寂しげな顔をして、ふっと小さく息をついた。その時、僕はふいにそいつが来ている白いタキシードが、僕自身の着るはずだった花婿の衣装であることを思い出した。そして、職場の前にあるシティホテルに展示してあった真っ白なウェディングドレスが、誰が着るはずだったのかということも。

 僕は、目の前にある白いタキシードを着て、あのウェディングドレスを着た彼女と結婚式を挙げるはずだったのだ。そうすれば、今頃僕は孤独ではなく、温かな新婚家庭に帰っていたはずだ。でも、僕はあの日、約束の式場には行かなかった。いや、行かなかったのではない。行けなかったのだ。

 唐突に目の前の景色が一変して、その時の場面になった。そして、すべてを思い出した。式場のほんの100メートル手前の交差点。僕は赤信号を無視して飛び込んできた自動車にはねられたのだった。足元には白いタキシードではなく、真っ赤に染まったTシャツを着て倒れている僕が横たわっていた。

 そうか、僕の存在はあの時に消えてしまったのだ。同僚が挨拶をすら返してくれなかったのは、無視をしたわけではなく、そこに僕がいなかったからだ。以前はあんなに明るかった職場の雰囲気がなんとなく暗いと感じたのは、僕が死んでしまったからだ。

 それが分かると、なぜだか僕は妙にほっとした気分になった。それなら、時と共に和らいでいくに違いない。僕が心配しなくても、皆は大丈夫だ。ウェディングドレスの上に乗っているはずの顔はぼんやりとかすんでいたが、思い出してしまったら今度はもっとつらくて悲しい思いをしなければならないから、そのままにしておくことにした。

 そこまで考えると、再び景色は公園の近くの路上に戻った。そこにたたずむ僕自身の着ていたはずの白いタキシードは、いつの間にか真っ黒なスーツに変わっていた。今度は半身ではなく、正面を向いてまっすぐに立っている。僕が初めて見るその姿は、きっと葬儀で用いられた遺影なのだろう、と思った。


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