第57話 言葉だけ
十月第三週の木曜日は雨だった。
美月が縁側で雨を眺めていたかと思うと、居間に入ってきてウロウロし、チラリと俺に視線を向けてから、また縁側に出ていく。
雨は夜明けから降り続いており、
時刻は午前十一時。
いつも通りの時間に起きたが、この雨なので今日の農作業は中止にした。
美月がまた居間に入ってきた。
ピンク地にクマの絵が沢山描かれたパジャマ姿のままだ。
「おい美月」
俺の正面に座ったくせに、膝を抱えて
「な、何ですか?」
顔を上げ、さあ来い、という感じで挑むような目を向けてくるが、やっと来た、みたいな喜びが口許に出ていた。
「学校は?」
あからさまに意気消沈する。
「休校ですが」
今日は木曜日、平日である。
「嘘を
「私の誕生日ですので」
まさか忘れてはおるまいな、という殺気を含んだ視線だが、忘れられてたらどうしよう、みたいな不安が噛み締められた唇に表れている。
「誕生日がいつから休みになったんだ」
「孝介さんだって、自主無職しているではないですか」
「無職言うな! 雨だから農作業が出来んだけだ!」
「私も雨だから通学出来ないのですが?」
「お前は車で移動するだけだろーが!」
座布団が飛んできた。
運動音痴の美月はコントロールが悪いので、座布団は
「こーすけ君、コーヒー飲む?」
美矢は座布団には目もくれず、
白地に黒い猫の絵が沢山描かれたパジャマ姿だ。
今日は木曜日、ただの平日である。
「美矢、お前──」
「キリマンとブルマン、どっちがいい?」
「聞けよ!」
「キツマンとユルマン、どっちがいいですか?」
「キツマンに決まってんだろーが!」
「キリマンだね、ちょっと待っててね」
……美矢は台所へ行った。
今日は雨で、アンニュイな気分でもある。
そんな日はコーヒーでも飲んで、雨音に
雨は強まりも弱まりもせず、一定の強さで、いや、優しさで、地面を、屋根を、木々を叩いた。
部屋を満たす
「お待たせー」
お盆に乗ったコーヒーカップは三つだ。
「はい、こーすけ君と私はキリマン。タマちゃんはユル、ブルマンね」
「……みゃー、私もキリマンがいい」
「もう、我慢して」
「……」
何故そんなに
いや、そんなことより、今日は木曜日、ただの平日である。
「美矢、学校は?」
「え? 今日はタマちゃんの誕生日だよ?」
なにその常識!?
美月の誕生日は学校を休むのが当然なのか!?
……まあいいか。
一年に一度のことだし、こんな雨なのだし。
「では、本日はこんな雨の中、わたくしの誕生祭にお集まりいただき──」
「三人とも寝起き姿のままだけどな」
「孝介さん」
「何だ?」
「さっきから思っていたのですが、もしかして私の誕生日をスルーしようとしているのでは」
そういうつもりは無いが、今回は美矢とセットでイベントを行う予定だ。
美矢は来週の木曜が誕生日だから、間の日曜日をその日と決めている。
花凛もいろはも、みゃーママも来てくれる。
二人には何も言っていないから、きっと驚いてくれる筈だ。
いや、何より喜んでくれる筈だ。
「もしかして、先日のことでお仕置きですか?」
こらこら、寄る辺ない少女のような表情をするな。
美月がそんな顔をすれば、それは俺にとってもはや兵器である。
「先日のことは何も気にしてない。どころか、より判り合えたと思ってる」
「地降って雨固まるだね」
美矢がおかしなことを言った。
「……お前、小学校の先生、大丈夫か?」
「ん? あ、言い間違い言い間違い! だって血の雨が降るとかよく言うから、つい」
よくは言わないよな? それに、
「ち、じゃなくて、じ、な」
「……私が言わんとすること、判るよね?」
揚げ足を取るなと言いたいのだろうか。
「いやでも、雨が固まったらおかしいだろ。ていうか地面が降るって世界滅亡?」
「血降ってこーすけ君固まる」
「死後硬直かよ!?」
「え? 血の雨が降ってきて、こーすけ君がびっくりして固まってるの」
恐ろしい光景だが微妙に優しいなおい。
「孝介降って血まみれる」
美月は優しくねー!
「孝介振って孝介固まる」
振らないでくれ!
「誕生日スルーして孝介呪われ──痛っ!」
「ちゃんと用意してるよ!」
頭を叩かれたのに、美月の顔がパァーっと輝く。
「十九歳になった私は、ついに大人のおもちゃを手に入れ──痛っ!」
取り敢えずまた頭を叩くが、コイツらまだ十九歳なのかと、ちょっと感慨に
同級生達は結婚なんて考えもせず、自由
美月なんかは特に、普段は子供のように見えたりもするが、曲がりなりにも一緒に家庭を築いていると、やはり同世代とは違った落ち着きがある気もする。
「美月」
「はい」
呼ばれただけで嬉しそうな顔をされると、申し訳ない気持ちになるのだが。
「プレゼントは、無い」
「……贅沢をする気はありません。ゴーヤでもなすびでもいいのです」
「そんなもん好きなだけくれてやるわっ!」
「でも、どうして?」
美矢が口を挟む。
家計を守る立場として、先行きが不安になったのかも知れない。
「実は今度の日曜日、誕生会をしようと考えている」
「二人の?」
「ああ。お客さんも招待してる」
「まさか、私が
「知らねーよ! つーか誰だよ!」
「みゃーの冗談はともかく、どうせ客と言っても花凛ちゃんとみゃーママといろはさんくらいしかいないのです。孝介さんが一人で酒池肉林のハーレムを楽しむだけでしょう」
……まあ、半分は当たっているのだが。
「参加者はほぼ想像通りとして、準備については何も考えなくていいからな」
「え? 出前でも取るの?」
「庭か山でバーベキューかも知れないのです」
それも半分は当たっていると言えるが、お前らは自分以外の誰かが手料理してくれるとは考えんのか?
「とにかく、主役はお前らだから、ただ祝われていればいい」
たぶん、一生忘れられないような日になる。
そのために俺は、あちこち走り回ったのだ。
だから今は取り敢えず、
「美月、誕生日おめでとう」
言葉だけでいい。
それでも美月は、宝物でも貰ったように笑ってくれた。
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