コミケ帰りの小日向さん

 うーん! ホックホク!


 欲しいものをほとんど入手できて満足満足♪


 ここは東京の臨海副都心、有明ありあけ。帰省ラッシュの大晦日、私、小日向つぐみはこの地で開かれたコミケに足を運んでいた。


 きょうが最終日で、29、30日と合わせて3日間開催。1日約15万~20万人が押し寄せ、自作の漫画やイラスト集、小説や雑貨などの創作物を手売りする、毎年お盆と年末恒例の大イベント。アニメ、ゲーム、その他創作物に関連する企業の出展もある。特に3日目のエッチな本が多い日は混雑する。私は18歳未満なので、そういった本には手を出さなかったり……。


 会場内は押し合うほどの人が密集し、冬でも汗で汗を洗う。もし襟巻きをしていたら何千何万の他人の汗がびっしりこびり付く。建物内にある天井の低い連絡通路では息が苦しくなる。そんな鬼畜のイベント。


 おまけにアイテム1点入手するために1時間前後行列に並ぶ企業ブースや個人クリエイターのサークルも珍しくない。


 なので会場周辺の駅も大混雑。私は会場と国際展示場こくさいてんじじょう駅の間にあるカフェでホットココアをお供に一休み。人が少なくなってきたところでカフェを出て、りんかい線に乗った。


 国際展示場駅から茅ヶ崎駅まではりんかい線で大崎おおさき駅まで行き、そこから湘南新宿ラインに乗り換えて計90分弱。都内には滅多に出ない私だけど、このときばかりはアクセスの良さに助けられる。


 湘南新宿ラインでは座れなかったので、戦利品で重たい少し大きめのトートバッグを肩に掛け、進行方向左側のドア脇に立った。


 快速電車なのでこちらのドアは4駅先の大船おおふなまで開かず、その先は少なくとも茅ヶ崎まで開かない。きっと2駅先の横浜で着席できると思う。



 座れなかった……。



 大晦日だから帰省中の人が多く、見た感じでもいつもより人は少ないけど、甘かった。席にあぶれて立っている人もけっこういる。乗った車両が良くなかったかな。15両編成の13号車。これでも隣の12号車よりはいくらか空いている。後ろの14号車はボックス席で見通しが良くないけど、立っている人はけっこういる。


 実は私、朝9時に降りたりんかい線の電車から一度も座っていない。お昼は会場内に乗り入れていた露天商のケバブを立ち食い。


 横浜駅を発車した電車は聞き慣れた自動放送を流しながら、すっかり日の暮れたネオンの街を右手遠目にゆるゆると加速している。ガタンガタン! と刹那に橋を渡る大きな音がした。左に東海道線の川崎ルート、右に相鉄そうてつ線が並び、湘南新宿ラインは中央の線路を走る。


 現在時刻は18時5分。次の停車駅、戸塚とつかまでは10分かかる。これより手前の停車駅間隔も10分くらいなのに、横浜~戸塚間は妙に長く感じる。都会とベッドタウンの境界線で景色ががらりと変わるのと、ゆっくり走る区間が長いからかな。


 相鉄線と別れてまもなく通過する保土ヶ谷ほどがや駅手前までの約3分間は直線、駅に差し掛かると同時に急カーブに入るので電車は速度を落とす。


 カーブを抜けると墓地を抜け、断崖絶壁の丘を登る。


 斜面の中腹を走る湘南新宿ラインからは見えないけど、頂上を走る川崎ルートの線路からは雑木林や小川が見下ろせる。早朝の電車に乗ると時期によっては紅の朝陽が見えて、海岸から見るそれとは違う情緒を味わえる。


 続いてトンネルに入る。トンネルを抜けると線路は緩やかに蛇行して、東戸塚ひがしとつか駅に差し掛かる。快速なのでこの駅も通過。


 ここからようやく疾走感を覚えるスピードを出して、あの有名なヌードルのメーカーもある工場地帯を抜け、4分ほどで戸塚駅に到着する。


 戸塚駅でようやく着席できた。実に9時間ぶりの着席。陸上競技部に入っていなかったらきっとどこかで崩れ落ちていた。


 やって良かったな、陸上……。


 陸上競技は色んな場面で役立つ。電車内でも、会場を回る体力と、素早く移動するための敏捷性びんしょうせいが必要なコミケの会場でも。


 鵠沼海岸学院陸上競技部では、小学校からの同級生、種差たねさしりくくんが長を務めていて、部は運動部の激しくイケイケドンドンなイメージとは相反して和気藹々、朗らかな雰囲気で居心地が良く、入って良かったと心から思えるクラブ。


 おかげで少しずつだけど脚が速くなってきて、手脚をバタバタさせる女の子走りが改善され、整ったフォームで走れるようになってきた。


 フォームが変わると、世界が変わる。


 というと大袈裟だけど、トロい私が少しスマートに動けるようになった。


 例えば街を歩いているとき、以前は他の人にどんどん追い抜かれていたけど、いまでは逆に自分が他の人をよく追い抜くようになった。


 俊敏な沙希ちゃんやまどかちゃんに歩くペースを合わせてもらう必要もなくなったし、駅の階段を上がるとき、もう無理だと諦めて乗り遅れていた電車にも、入線する前にホームに降り立ち、余裕で乗れるようになった。しかも階段から離れた比較的空いている車両に。そう、いま乗っている13号車。以前は混んでいる7号車辺りに乗っていた。


 こんなふうに、陸上競技は日々を軽やかで爽やかにしてくれた。のろまコンプレックスの自分が自信を持てるようになった。それは本当に魔法のようで、姿勢や動きを変えるだけで、地球の重力はこんなにも弱く感じられるのだと、もう感激!


 たった半年弱でこれだけの成果が上げられたのだから、我ながら大したものだと思う。


 でも、楽しいばかりじゃなかった。


 入部前の私は、時間が取れると近所の緑地で野生のシジュウカラを肩に乗せ、木漏れ日を浴びながら読書をし、家で勉強をして、週末は近所のショッピングモールに出かけ、夜遅くにアニメをリアルタイム視聴する、スポーツとは無縁の暮らしをしていた。


 それが一変、この半年弱は血を吐きそうなほどの努力を余儀なくされた。


 まずウォーミングアップ。沙希ちゃんが中学時代から物凄くしんどいと言っていた理由がよくわかった。


 校庭3周。そう言われるとどれだけの距離を走るのか、いまいちピンとこなかった。後に聞けば千メートル弱という。


 それ、茅ヶ崎駅から北茅ヶ崎駅くらいあるよ!? 一駅分も走るの!? えーもうやだ帰りたいよぉ。


 そう部活の度に憂鬱になりながらも、私は逃げなかった。


 高湿度の真夏の夕方、気温は30℃を超えていて、出だしから全身汗だく、おまけに他の部員が走る速さは、とても私が付いてゆけるものではなかった。それだけで強い劣等感と足手まといになっている罪悪感に支配され、精神的重圧がかかる。


 それでもみんなイヤな顔一つせず、種差くんを中心に、それぞれ自分の練習メニューがある中、迷惑をかけているだけの私に丁寧な指導をしてくれた。


 みんなには感謝の気持ちしかなく、せめてもの恩返しとして土休日の練習や大会、記録会の日は薄くスライスし、氷を混ぜたレモンのはちみつ漬けを密閉性の高いタッパーに入れて持参するようにした。幸いはちみつアレルギーの部員はなく、みんな喜んで食べてくれた。


 そんな温かいチームだから、私は今日まで陸上を続けられている。


 戸塚駅を出て20分後、茅ヶ崎駅に着いた。乗客の約半分がこの駅で降りるため、まだ茅ヶ崎市の人口が少なかったころに造られた狭いホームは一気に人でいっぱいになる。


 雑踏、電車の室外機、北風の冬でも微かに潮を含んだ空気に包まれ、発車メロディーのサザンオールスターズ『希望の轍』サビ部分が流れる。


 帰ってきたなぁ。


 茅ヶ崎駅で電車を降りる度、いつもそう実感する。


 改札口を出て、欧米諸国の地方空港に似た開放的な雰囲気のコンコースに出た。しかし駅ビルの入り口前では大晦日ということで、至って和風の海老天を販売している。簡易テーブルに並ぶ海老天と、販売員のおばさん。古くから馴染んでいる日本の惣菜屋さんの背後には、ニューヨークやパリにもありそうなお洒落でモダンなカフェがある。


 あ、そういえば年越しそば用の天ぷらを買って帰るよう、お母さんに頼まれてた。


 とりあえずその場で海老天を買い、他のネタがないか、1階の食品フロアに降りてみた。



 なかった……。



 どうして、どうして海老天しかないの?


 茅ヶ崎駅は数年前にリニューアル工事を始め、それに伴いコンコースにあった天丼屋さんが閉店した。天丼屋さんには海老天の他にも野菜など多様なネタが揃っていて、重宝していたから残念。


 復活しないかなぁ、天丼屋さん……。


 ささやかな祈りを胸に、私はトボトボと駅ビルを出た。やや高い建物が多い北口のロータリーにはバスとタクシーが10台ほどずつ待機している。キャパは南口の2倍くらい。茅ヶ崎は北側のほうが面積が広く、人口も多い。


 右へすぐのところに2階を通過して3階のコンコースへ直行するエスカレーターがある。それに乗って、コンコースから南口に出た。


 うーん、無駄足だったなぁ。海老天以外にもあると思ったんだけどなぁ。


 きっと、コミケで今年の運を使い果たしたんだ。


 落胆したとき、差し掛かった牛丼屋さんの中から大きな男の子が出てきた。


「合田くん」


 ど、どうしよう、私の運、まだ尽きてなかったみたい……!

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