第171話 初めての感情への戸惑い

「婚姻は破棄しない……だと?」

「ええ、そうよ。あら、聞こえなかったのかしらね? なら、もう一度だけ言ってあげるわよ。ルイス、私は貴方から申し出を受けた婚姻を破棄することはないわ」


 信じられないといった顔を浮かべているルイスを尻目に、マーガレットは何故か勝ち誇った顔でそう言ってのけた。

 そして畳み掛けるよう、意味深にもこんな言葉を口にする。


「そもそも貴方がそうなるようにと、仕向けてきたことなのでしょ? それなのに信じられないとでも言うつもりなのかしらね?」

「いや、それは……」


 ルイスはこのとき、内心では心底焦っていた。


 何故なら指輪付きのネックレスを彼女へと差し出して見せ付けた、本当の意図をこうも容易く見抜かれてしまったその上で、彼女は婚姻までも了承すると口にしていたのだ。

 オマケに今、目の前で彼女から突きつけられた条件が書かれた婚前契約書まで破り捨てていたのだ。これを疑わずして何と言うだろうか?


「ふふん。あのルイス・オッペンハイムと言えども、随分と可愛らしい顔をするのね。まるで子供の嘘が親にバレてしまい、叱られるのを今か今かと体を震わせながら、怯えているようにも見えるわよ」

「ぐっ……」


 彼女から図星を差されてしまったルイスは、反論する機会を失ってしまう。


 事実、彼は彼女のことを絡め取りデュランへとぶつけ合わせることで、あわよくば両者を同時に潰す算段をしていたのだ。

 それが下に見ていたはずの目の前にいる女性にまんまと裏を掻かれてしまい、指摘されてしまったのだ。ルイスと言えども、この動揺は隠しきれるものではなかった。


(この女のことを少々侮りすぎていたかもしれないな。腐っても貴族の生まれというわけか……。いや、男ではなく女だからと蔑んでいた私にも非があるのだな。それがこのような油断に繋がってしまったのだから……)


 ルイスは自ら彼女を格下に見ていたことを反省する。

 そして気を取り直すと、彼女に向けてこんな言葉を口にする。


「……すまなかった」

「あら、貴方が素直に謝るだなんて珍しいこともあるものね。ちなみになんだけど、その謝罪はどういった意味合いのものなのかしらね?」

「ふっ。あまりイジメないで欲しいものだね。だが、今回ばかりは私に非があることを認めようじゃないか」

「あくまで強気な言葉だけの謝罪なのね……。ま、それでこそ貴方らしいけどね」


 マーガレットはルイスが謝罪の言葉を口にしていても、頭まで下げているわけではないと一蹴する。

 それでも彼からその言葉を引き出せただけでも、十分だと思っていた。


「ふふっ。もういいわよ、それで」

「……そうか」


 マーガレットは張り詰めていた気を緩める形で、少しだけ口元を緩める。

 ルイスの目にはそれが何故だか、彼女が自分に向けて微笑んでいるようにも見えてしまい、不思議と見惚れそうになっていた。


「……つもりなのよ? ん……ねぇルイス? 私の話をちゃんと聞いてるの?」

「あっ……ご、ごほん。なんだ?」

「……貴方、一体何にそんな動揺しているのよ? それともまだ何か隠し事でもあるというの?」

「そ、そんなものはない。キミが顔を近づけたから驚いてしまっただけだ」


 ルイスは訝しげな顔付きで、自分の顔を覗き込んでくる彼女に心を掻き乱されてしまい、その気持ちを誤魔化すため顔を背けてしまう。

 だがその頬は若干ではあったが赤味あかみを孕んでいたのだ。


(ぐっ。ど、どうしたというのだ? 何故こうもこの女のことが気になるのだ? それに顔を近づけられ、思わず背けてしまった。こんな女なんかに私は……私は……)


 ルイスは戸惑いと驚きから、自分でも何を思い考えているのか、分からなくなっていたのだ。

 そしてそれは彼が初めて体験する感情でもあり、何故かマーガレットのことが気になり始めていたのだ。


「んんっ。それで何の話をしていたのだ?」

「それでって……やっぱり貴方、私の話を聞いていなかったんじゃないの!?」

「むっ。き、聞いてはいた。だが、もう一度詳しく言ってみろということだ」


 ルイスは今の自分の気持ちを彼女に悟られぬよう、わざとらしい咳払いをして誤魔化すことにした。


「はぁーっ。だからどうやってデュランを追い込むつもりなのよ、って聞いたのよ」

「むっ! デュランのことを追い込む……だと!?」


 一瞬何を言われているのか分からないと、ルイスは彼女の言葉を繰り返したが、途中でその意味を理解した。

 だが彼女からそんな言葉が口に出たこと自体、驚き以外の何物でもなかった。


「ええ、そうよ。このネックレスと指輪を持っているということは、私とデュランとを貶めるつもりだったのでしょう? きっと他にも策を巡らせていた……それくらいのこと私にだって理解できるわよ」

「……」


 マーガレットのそんな物言いに、ルイスは思わず言葉を失ってしまった。

 それもそのはず、彼女は彼の意図を知っていてなおのこと、自ら進んでデュランのことを陥れようと自分に聞いてきていたのだ。


「貴方、さっきから面白い顔ばかりしているわね?」

「なっ!」

「ぷっ。あっはははっ。あら、貴方本気にしたの?」

「っ。わ、笑うなぁっ!!」


 マーガレットはそんな彼のことをからかうようにそんな言葉を口にすると、彼は咄嗟に自分の顔に手を当てて確かめる素振りを見せていた。

 何故だかそれがとても可笑しく思え、彼女はついに笑うのを堪え切れず噴出してしまう。ルイスは恥ずかしさとともに、目の前で笑顔になっている彼女に向けて怒鳴り付けるが、それは些か迫力不足というもの。彼女はそんなことを一切気にせず、愉快そうにもルイスに向けて盛大に笑みを浮かべていた。


(な、なんなのだこの女は? どうして今の状況でこんなにも笑えるのだ? それにそんな笑顔を見ていると、私の心まで奪われてしまうようにも感じてしまう。この感情は一体……)


 それでもルイスは彼女から齎されてしまった、初めての感情がどこか心地良いものだと、気づいてしまったのだ。

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