10.


 年が明けると、大地くんは普通に一回転を飛べるようになっていた。


 一月の最初のレッスンで、彼が一回転後に片足で着氷した瞬間、俺は「えっ?」と声を出してしまった。せんせーびびってるー、せんせーしつれー、と子供たちからやいのやいの言われてしまった。


「いや、だってこの前はまだ安定してなかったし」


「へへ、そんなの大昔じゃん」


 この前はめちゃくちゃ弱気だったじゃねえか、と思ったが、小学生にとって一週間以上前は確かに思い出すこともないくらいの大昔だ。

 子供の頃、季節ごとに一度家に来ていた親戚から、毎回必ず「最近よくお邪魔してごめんねえ」と言われて不思議に思っていたが、今なら納得がいく。小学生にとって何ヶ月か前のことは歴史上の出来事レベルで、大人にとってはすごろくの一マス前程度に近い過去だ。


「もうよゆーよゆー、四回転半まで一気にいっちゃうし!」


 子供たちはありえねームリだろーとかすげーかっけーとかワイワイ言っている。俺は呆然としながら思っていた。フィギュアに向いていないと思っていたが、彼のアスリート気質なら、波に乗ればいつか何回転でも出来てしまうかもしれない。あのスピード感も、上手く使えば新しいタイプの演技になる。

 その前向きさや無鉄砲さは懐かしくて、何の罪の意識も無く、胸元に銃口を突き付けてきているようで、俺は息苦しさを覚える。


 昔は俺だって、どんな壁でも必死によじ登って越えていった。氷の奥底で息をひそめる理想の演技は、いつか春の訪れと共に俺の傍らに姿を見せると信じていた。誰にもできない演技を、昨日の自分を超える美しさを、軽やかさを、華やかさを。


「けーたせんせい? だいじょーぶですか」


 美裕ちゃんが、心配そうに下から覗き込んできた。その表情はカンペキに心配さを滲ませていて、きっと将来この子は男を手玉に取るタイプだな、となぜか直感した。


「何を見たの? 普通だよ?」


「え、でもなんか、かお、こわかったです」


「目の錯覚じゃない? 俺じゃなかったのかもよ、それ」


 適当すぎたかな、と思ったが、なにそれこわい! にじゅーじんかく!? とかみんな口々に言い出して、どうやら助かったらしい。


 そんな一部始終を、後ろで福原さんが見ているのには気付いていた。




 今日の分のバイトを終え、事務室でテレビをBGMに勉強していると、スポーツニュースのコーナーになり、フィギュアの特集が始まった。俺は反射的にリモコンを掴もうとして、手が空を切った。


「お、蓮のやつ、頑張ってるな」


「ちょっと福原さん」


 顔を上げた瞬間、氷上の映像が目に飛び込んできた。弦楽器の華やかな音楽をバックに、蓮が踊る。昔は子犬が跳ね回るように可愛く、裏を返せば雑とも取れたステップは、一つ一つの動きに意味を持った大人のダンスへと変容しつつある。

 これが年末の全日本、つまりシニアも含めた全国大会での映像だ。今の蓮が立つのは、どの辺りの地平なのだろう。どれくらいの高さから、俺を見下ろしているのだろう。


「まだ人気先行って感じだが、じきにエースだな、あれは」


 練習風景を映した後、蓮のインタビューが始まる。


 ――ええ、ぜひ今年こそは、ジュニアで世界を取りたいですね。


「かー、あんな奴にジュニアに出られたら、他の奴らはたまったもんじゃねえよな」


 この前、蓮を振り切って帰った夜。彼からメールが来ていた。


『俺、三月末のジュニアの世界大会で、ジュニア引退するから。ケジメとして、本当は最後にお前と勝負したいって思ってたのにさあ』


 もちろん返事はしなかったけれど、なんで俺なんだ、とずっと思い続けている。

 ニュースは他の選手の特集に移っていた。今の日本のエースで、昨年度の世界選手権優勝者の映像が流れる。もうこんな凄い人たちと勝負できるアイツは、たかが日本の一都市で火の消えたロウソクを持て余している自分なんか、眼中に入れない方がいい。


「お前はとっととシニアに行ってしまえ」


「いいのか、ライバルさんよ」


「俺なんか、少年マンガの一巻に出てくるライバルAですよ」


「かつてのライバルがまた立ちはだかる、ってのも王道だと思うがな」


「無理です」


 まあ冗談だ、と言って彼は煙草に火をつけた。ニュースはサッカーの話題に移り、彼はリモコンの電源ボタンを押した。


「まあ、俺は好きにすればいいと思うし、親もコーチも別に何も言ってこないんだろ?」


「コーチはずっと残念がっていますけど、親は元々俺がやりたいならやれって方が強かったですし。お金もかかりますしね」


 こうやってバイト代貰ってる方が親も助かりますよ、と繋げて、それならもっと割のいいバイト探せよ、と福原さんは笑う。


「こっちとしても助かるからいいんだけどな。もっとフィギュアの演技指導とかやりたければ、そのつもりで色々手配もするぞ」


「それは言わない約束です」


「はは、わからねえもんだなあ、あのお前が」


 福原さんの吐き出す白煙が、スケート靴で削れて散る白い氷片に見えてしまう。


 あんなに、自分の表現を追い求めていたお前がなあ。


 フィギュアから離れられないのは確かだ。だけど、もう滑ろうとしても自分の中から何も感情が出てこない。

 技術指導はできても、きっと表現指導はできないだろう。たまに何か思い出しそうなことがあっても、いざ実行すると全て間違っているような気がして、氷上で立ち尽くしてしまうのだから。まるでフィギュアを始める前に逆戻りしたかのように。


「蓮がお前に執着してるっていうのだけどな」


「はい?」


「蓮はまだ、お前の中にあった表現のセンスを追い求めているのかもな」


「え? なんですかそれ」


「前に蓮が言ってたんだよ。お前の中に眠る表現、あれがいつになっても掴めないって。あのセンスは他の一流選手にもなかなか見つからないんだとさ。圭太はまだその本当の凄さに気付いていない、自分が掴めないなら、お前の中から引っ張り出して見てみたいって」


 そんなことを言われても、開かない引出しからは何も取り出せない。


「福原さん、さっきからどっちなんですか。俺に競技に戻ってほしいのか、そうじゃないのか」


「ん? そんなのはお前が決めることだ」


 ククク、と笑って二本目の煙草を取り出す。狭い事務室は、昔からいつだってこの苦い煙の匂いに満たされている。


「だけど、年寄りは若者の活躍を見たいもんなんだよ」


 ただの戯言だよ、と彼が言った瞬間、事務室の電話が鳴った。電話口に立った福原さんの声が一気に明るくなる。長電話になりそうな予感がして、俺はその場を立ち去った。


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