バカ
「バッカじゃない!」
昼休み。偶然出くわしたさやかと廊下でさっきの授業の話をしていると、彼女はご丁寧にも盛大に大爆笑してくださった。
「そこまで笑わなくていいじゃんよ」
「いやだってさ、なにその展開、バカ丸出しじゃん」
「あのときの教室の静まり方よ。たぶんさ、ライブで滑った芸人ってあんな気分だと思う」
もし将来お笑い芸人になるなら非常に貴重な第一歩を踏み出した……ことになるが、
「でも広大って、授業中ボーっとしたりするんだ」
「そりゃボーもベーもブーも」
「いや、割と真面目なところあるし」
いつも通りすんなりスルーされ、しかも物凄く真面目なことを言われてしまった。小さく「……ビーバー」と呟いて、
「ま、普段は真面目子ちゃんですけどねえ」
と適当にお茶を濁していると、ロッカー室の方から見慣れた影が現れた。
「あ、凛、腹痛大丈夫なの?」
「さやか! うん、もう平気だよー」
ありがとー、と言って坂井はさやかに抱きついた。さやかもよしよし、と背中をさすっている。
未だに、少し納得がいっていない自分がいる。だってこんな光景、数か月前なら鏡の国に行ってもあり得なかったような状況だ。あれ、鏡だと逆になるから……まあいいか。
七月の終わり頃だろうか、この二人が仲良くし始めた辺りから、さやかは目に見えて明るさを取り戻していた(元がクールだからこの程度だが、と言ったら睨まれそうだ)。
そして何より、一番の変化は、彼女がカップ麺を持ってこなくなったことだ。
――もう平気だから。
そう微笑んでいた彼女に、自分はただ「良かったじゃん。お祝いにラーメン行こうぜ」としか返せなかった。茶化さなかったら、過去に囚われて必死にもがいていた彼女の姿を思い出して、ボロが出てしまいそうだった。
「あ、そうだ、坂井って英語だけ得意だったよな」
二人が同時に振り向く。もう秋だけどまだ日焼けの残るさやかと、年中無休で真っ白な坂井。顔が二つ並ぶと本当に対照的だ。
「だけは余計、生物も得意だし。どうしたの」
「もしかしてさっきの話?」
きょとんとする坂井に「あのね」と言いかけたさやかを、俺は「やめんか」と制した。
「英単語でさ、『ぱてぃえんと』って何?」
さっきの授業は結局時間切れで、和訳は次回ということになって終わってしまったのだ。忘れないうちに調べておこう……と思ったが、坂井はなおもきょとんとしている。
「ぱてぃえんと? 『特許』のpatent (パテント)じゃなくて?」
「いや、特許とか出てくる感じの文じゃ……」
ん? とさやかが神妙な面持ちになる。
「それ、レッスン5?」
「そうそう、5」
ぷっ、と蔑むような破裂音がした。
「それ、patientだよね? 読み方『ペイシェント』だよ?」
二つの笑いが廊下に響き渡り、俺は目をパチパチとしていた。
「ぱてぃえんと。良かったねー聞いておいて」
「うん、ぱてぃえんとって。ふふ、ぱてぃえんと、なんかカワイイ」
ちーん、という音が脳内で鳴り響いた。可愛いね、ああ、君らが言うとなんか可愛いね確かに。俺が言ってもしょうがないね。ええ。
「ふふ、あ、意味は『我慢強い』だから。ふふふ」
「ありがとさん。頼むから笑うか言うかどっちかにしてくれ」
一方のさやかは指をさしながらゲラゲラ笑っていて、普段茶化している仕返しだなコイツ。「我慢強くせい」と頭をはたくと、「どっちかにしろって言ったじゃん」と言われたが気にする必要はない。
「ほら行くぞ、さっさと体操服取ろうぜ」
悔し紛れにさやかの手を取ってロッカー室へと引っ張っていく。「あー、凛」「さやかー」と腕を伸ばし合う茶番を横目で見ながら。というか仲良くなりすぎだろ、女ってよくわかんねえな本当に。
結局そのまま坂井と別れ、ロッカー室へと入っていく。
それにしても、意外。
「振り払わないのか?」
「え? 別に今さらじゃん」
一度さやかの顔を見て、ま、そうだよな、と言いながら、俺はパッと掌を開けた。俺の浅黒い手から、さやかの紺のブレザーを通した腕が落ちて、ぶらん、とその腕は慣性のまま前後に揺れた。
「どうしたの?」
俺は自分の手を見つめてみた。「いや、握力下がったかなあって」「ペン持たずに足ばっかり使ってるからじゃない?」そんな会話をしながら、お互いに自分のロッカーへ向かった。
手には、さやかの細い腕の感触が残っている。そうだよな、と頭の中でさっきの思考がリピートしている。
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