ハイジャンプ
数十メートル先に、紅白のバーがかけられている。
バーの向こうには、黒く曇った空。六月は湿度が高くて、じっとしていると体中に張り付いた汗で滅入ってしまいそうだ。
ジョグとショートスプリントで動くことに馴染んだ両脚を、ぷらぷら、と振ってみる。洗った筆の水を切った時みたいに、辺りの空気に鬱陶しい気分が散らばる。
息を吐いて、一歩、二歩と前に踏み出し、徐々にスピードを上げる。ずっと聞こえていた吹奏楽部のマーチも、サッカー部の叫び声も、全部後ろに流れていく。
残り数メートルになると、内傾姿勢をとって、円弧を描きながらバーの前へと吸い込まれる。スピードの上限とバーまでの距離との均衡点で、左脚をばねにして跳び上がる。
すっ、と風を切る音が聞こえて、背中の後ろをバーが通り過ぎた。
マットの柔らかさに衝撃を受け止められる。息をつきながら、視界に澱んだ空を捉える。
雲は、天の世界と私を断絶する。
素早く立ち上がった。持ち場へと戻る間も今の自分の動きを反芻しながら、みんなの跳躍を眺める。
次の人がバーを越える。また次の人もバーを越える。小さい頃、よく、眠れない夜に羊を数えようとしたときのことを思い出す。なぜか私の羊たちは、一つ数える度にわざわざ柵を飛び越えて退場していた。
次の後輩の子が、バーに引っかかり、力が抜けたようにマット上で両腕を広げる。
「
私の声に、その後輩は慌ててマットから棒を拾い上げる。私は溜め息をつく。そう言えば、私の羊は、よく柵に引っかかって睡眠を妨げていた。結局、羊を数えて眠れた試しがないように思う。
背後から、ふふっ、という失笑が聞こえた。
「おうおう、キツすぎじゃねえの、先輩さん」
「……何か文句ある?」
別に、と
彼、
「ていうか、なんでここにいるの。サッカー部の方戻りなよ」
「今ランニング終わったとこ。あれだぜ、ピリピリしてたら後輩ちゃん達、萎縮して跳べなくなるぞ」
「こっちは大会近いの。私たちもだけど、三年生とかガンガン跳ばないとダメから」
「それ言うの三年の役割じゃないか? 別にいいけどさー」
苦笑しながら、諫める感じの口調。私が肩をすくめると、尚もおかしそうに笑って、彼はサッカー部の方に戻っていく。なにいちゃいちゃしてんだよー、はいはい寝言は寝て言えおやすみグッナイ、という会話が聞こえて、さすがにイラッとしそうになる。
小さく深呼吸をして、再び視線をバーに戻す。
じっと佇むバーを見ていると、不思議と心が研ぎ澄まされる。まるで私を試そうとする門番みたいに思えてくる。
私のやっている高跳びという競技は、実は結構難しくて奥が深い競技だ。
跳ぶ瞬間に辿り着くためには、ちゃんとしたお膳立てが必要だ。
動き出しはゆっくり。徐々に速く、真っ直ぐ、但し百パーセントのスピードにはならないように。カーブを描いて、ポイントに達すると、
蹴る。
バーを越えながら、頬に冷たい感触を覚えた。
直後、今日五回目のマットの感触を味わう。頬にまた水が弾ける。この姿勢になると、雨粒が流星のように降り注いでくるのがよくわかる。
「さやかちゃん、片付けるよ」
慌てたような先輩の声に、「まだ早くないですか?」と答える。起き上がる瞬間、目に雨粒が飛び込んできて、反射的に瞼が下りる。まつ毛と眼球の間で、ぴしゃり、と水が弾けた。
「今日これから本降りになるって予報出てたから。ほら、下りて」
目をこすりながら、彼女たちと共にマットの片付けを始める。辺りの運動部員たちもせわしなく用具を片付けている。
目の違和感、グラウンド。
いつだかも、こんなことがあったような。
「今日調子良さそうだったから、残念だね」
同級生の女子が小さな目を和らげて、労うように言った。
「うーん。そんなに調子いいって訳でもなかったかなあ」
「そう? こっちからは綺麗なフォームに見えてたけど」
「いや、自分じゃわからないときもあるしね、どうだろ」
今日は、少し軸がぶれていたように思った。
バーを中心にして、コンパスを回すようにして軌跡を描く、私はそんなイメージを持っている。
今日はその軸が定まらなかった。と言っても、練習の最初だからそういうこともある。あと何度か跳べば修正できたと思う。そういう意味では、残念だった。
雨足が強くなっていく。まだ目の感じがおかしい。奥の方からすーすーしている。
何度か手の甲で擦るうちに、滲み出てきた微量の涙と混じってようやく目の表面にじわあっと浸透する。
その潤いで、さっき感じたデジャブの正体に気付いた。
ああ、あの日だ。あの日のグラウンド。その後に起こったことが衝撃的で、すっかり忘れていたのだ。
遠くで雷鳴が聞こえて、どこかで叫び声が上がる。本降りはもうすぐなのだろう。梅雨って嫌だね、と誰かが後ろで憂鬱そうに呟いた。
三月のあの日も、雷雨だった。
薄暗い校舎、やけに明るい職員室の蛍光灯。
電話越しの声、先生の言葉、外の雷の音。
走りながら、体を濡らす雨、背中に流れる汗、止まらない涙。
雨の街の匂い、病院の薬品の匂い。
これ以上なく、からっからで、ざらざらとした口の中。
あの日、私のお母さんは死んだ。
私の、たった一人の家族が、逝ってしまった。
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