私を温めるもの
私が色々と音楽の勉強をしていたのは、本当は指揮者になるためではなかった。いつか吹奏楽の作曲をしてみたかったからだ。
中学生の頃、コンクールでやった曲を気に入って、顧問の先生からスコアをもらったのが始まり。
最初は全然読めなかったけれど、先生に教えてもらううちに理解していって、いつかこんな風に素晴らしい曲を書いてみたい、と夢見続けてきた。
それから、楽譜の書き方や、音楽理論、管楽器の知識なんかを少しずつ増やしていった。練習として、ピアノの曲やサックスの曲は時々書いていた。
だけど誰にも見せることはなかった。私の目標は、あくまでも吹奏楽の作曲をすることだったから。
指揮者に指名されたときは、本当に心の準備ができていなくてビックリした。だけどいざ指揮者になってからは、色々と決めた目標の中にこんなものを含めていた。
いつか、自分自身の指揮で、自分の曲を振ってみたい。
冬になって金管の使う物理準備室に入り浸るようになったのは、音楽室や地学の部屋が四階でこの部屋だけ三階で楽だったことや、指揮者として金管のみんなの様子も知りたかったというのもあったけれど、一番は、作曲のために自分が吹いた経験のない金管のことをもっと知る必要があると思ったからだ。
ずっと、こんな自分勝手な夢だった。
だけど次第にもっと違う意味を、つまりみんなへの感謝を前面に出したいと思うようになってきた。
しばらくの間、作曲は上手く進んでいなかった。だけどあの決意の日から、頭の中に散らばっていた音が、次々と止まることなく楽譜上に姿を見せ始めた。
みんなへの思いが、一つずつの音に自然と結びついていった。
「みんな、気に入ってくれたら、嬉しいな」
私の声が、すでに鼻声になりつつある。
教室のざわめきはどんどん膨らんでいて、たぶん私の声は隣にいる杏にしか届いていない。目が熱くて、気分が高揚して。
「岡田さん、音源は?」
ざわめきの中で、小柄なサックス男子の声がした。
ぽかんとしていると、その言葉に何人かが続く。
「ちょっと、パート譜だけじゃわからないよね」
「うん、ここって、メロディーでいいんだよね?」
「俺とかさ、スネアだぜ。リズムだけでどう判断しろと」
打楽器の男の子の言葉で、みんなは笑った。私も苦笑して、
「そうだよね、待ってて」
と鼻をすすって言った。私は携帯を取り出して、電子音で作った音源を再生し始める。
パソコンのフリーソフトで頑張って作った、最低限しかいじっていない、無機質でちゃっちい音だ。
そこから流れるのは、テンポ一二〇、軽快で、春の芽吹きをイメージしたマーチ。
演奏時間は、狙った。ジャスト三分。
だけどその三分が、今は酷く長く感じた。みんなパート譜を夢中になって見つめ、一言もしゃべらない。杏も私から奪い取ったスコアを読み込んでいる。
ミサンガを、知らず右手で触れていた。細い糸の感触がある。
ダサいとか言われるかも、鈍い反応が返ってくるかも。……。
平常心でいられるように、魔法を使っておけば良かった。
ふとそんなことが頭をよぎる。
ダメ。意味がない。ここを乗り切れないと意味がない。
色んなことを思い出す。
中二のとき、初めてオリジナルのピアノ曲を完成させたときのこと。
高一のコンクールで他校が演奏した曲に衝撃を受けて、帰宅後すぐにその曲のスコアを注文したこと。
音楽理論の本を読みながら居眠りした日々、木管のみんなの音、打楽器のみんなの音、金管のみんなの音、私の心を温める杏の音。
ミサンガから手を離す。
頑張れ、私。
再生が終わると、そっと停止ボタンを押す。
私もみんなも一斉に顔を上げる。制服の擦れるガサッという音が、やけに耳につく。
「わあ……」
誰かの声がした。言葉にできない声、感嘆の声。
「奈穂……すごいよ」
亜純が、いつものからっと明るい声を湿らせている。彼女の頬が紅潮している。これ以上何も言えない、震える唇が、そう語っている。
ふと隣を見る。
杏がスコアを机の上に両手でうやうやしく置いた。
「奈穂、お疲れ様」
彼女の胸の中に抱きとめられる。
とても温かくて、彼女らしい包み込むような温かさだった。
私はその胸に遠慮なく涙を置いていく。教室中に優しい拍手が起こって、すごい、いい曲、と言う声と、いくつものすすり泣く音がする。
あったかいな、と思った。
部屋の暖房も、杏の体も、私の涙も、みんなの心も、全部あったかい。
そうだよね、もう、春だもん。窓の外だって寒々しい景色は終わりを告げ、南風を浴びて緑が芽吹き始めている。
形にして良かった、と思う。
そして、早くみんなの音で聴いてみたいな。
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