ナツノヒ

 「じゃあ行ってくるよ」

 玄関先で優がそう言って仕事に行ってからもうすぐ三時間が経つ。

 外は炎天下らしく優の体調が少し心配ではあるが、それ以上に私には果たさなくてはいけない使命があった。

 優の家でお世話になってからもう半年程になるが、私にはこれといって収入もなく、毎日優が帰ってくるまでただ過ぎる時間を自分の好きなように過ごしている。それについて優は何も言ってこないし、私を追い出したりだとかそういうこともしない。家事も炊事もできないから温かなご飯をつくって出迎えてあげることすらもできないこんな私を優は甲斐甲斐しく世話してくれた。

 こんな時間がいつまでも続けばいいと、そう思ったりもする。けれど、始まりのあるものにはいつしか終わりがやってくるものだ。

 優は、このまま私がいなくなってもきっと困ったりはしない。身の回りのことは全部自分でできるし、寧ろ私の世話をしなくて良い分、きっと楽になるだろう。

 そう思うと、なんだかとても寂しいのだ。この家で過ごした日々が、まるで無かったことのようになるのが。それはとてもワガママなことだと分かっていても。

 何もできないまま、何もしないまま、何かが過ぎ去っていくのが怖い。それならば少しでも優の役に立ちたい。

 あの日、私を拾ってくれた優に、少しでも伝えたいんだ。ありがとうって、溢れてくるくらいの思いを。

 だから私は決意した。今日こそ優の役に立てることを何でもいいからやってみる。やったことないし分からないことも多いけどまずは部屋の片付けならどうだろうか。これくらいのことならば何とかできる気がする。

 とはいえ、キッチンは綺麗にされていてリビングには優が今朝、少しだけ散らかして行った紙が数枚ある程度。まずはこれを優の書斎に持って行く、くらいのことしかできないけれど。とにかく今は私がやればできるんだってことを証明できればいいのだから十分だろう。そのうち優もきっと私を頼ってきてくれるはず。

 よしっと、自分に気合いを入れ直し、散らかった紙たちをまとめて書斎に向かった。

 ここはずっと優に禁止されていて一度も入ったことがないところ。きっと部屋の中が散らかりでもしていて見られるのが恥ずかしいのだろう。なら私が綺麗にしてしまえば良い。そうしたらきっと帰ってきた優が笑って褒めてくれるに違いない。

 何の迷いもなく私は書斎の中へと足を踏み入れた。中は想像していたよりもずっと綺麗で、けれどリビングやキッチンよりは少しだけものがごちゃついていて埃もある。だけどやっぱり優が使っている場所なだけあって棚の中やデスクの上は綺麗に整理がされていた。

 おずおずと先へと進み、リビングにあった紙をデスクの上におく。ふと、そこに置かれた写真立てに目を向けるとそこには見知らぬ人物が写っていた。黒髪のロングヘアが似合う、とても優しそうな笑顔の女性だった。

 優のデスクに飾られたその写真が何の意味をさすのか、いくらバカな私でもわかる。こんな風に私から隠すようなことまでして大事にしていたそれが、優にとってどんな存在なのか。私や他の人が知らない優をこの人はきっと、独占しているんだ。

 何で、こんな気持ちになるんだろう。胸の奥が疼く。ドロドロと暗い感情に引きずり込まれるようなこの気持ちをどう表現すればいいのか、私にはわからない……。

 写真から逃げるように書斎の入り口へと踵を返した瞬間、どういうわけかデスクの上にあった本が床へと落ちていき、その反動で床に積まれていた他の本たちも巻き込んで辺りが散らばった本たちで埋め尽くされていった。

 ただ優の役に立ちたかっただけなのに……。どうして私はいつもこうなんだろう。何かをしようとするといつも空回って、いつだって大事な人のために何かをできたことなんてない。

 散らばった本たちを見つめて落ち込む私の耳に、聞きなれた声が届いた。

「ミカ、何してんだ」

 項垂れていた顔を上げるとそれは紛れもなく、優の姿だった。私のまだ見たことない、おそらく優の怒った顔がそこにはあった。取り返しのつかないことをしてしまったのだと、それを見て私はようやく気がついたんだ。

 そっと書斎から優の傍へと歩み寄る。顔を合わせることができなくて、私は深く俯いた。

「ここには入るなって言ったよね?」

「ごめんなさい……」

 素直に謝ると、頭上から大きなため息が降ってきた。優に嫌われてしまったのだと思ったらさっきよりもずっと胸がズキズキと痛んだ。

「ミカ」

 名前を呼ばれて黙りこくる私に優は構わず続けた。

「次からはもう勝手なことしない、わかった?」

「……!」

「これで話はおしまい、ご飯にするよ」

 優は書斎の扉を静かに閉じると、私から背を向けリビングに向かった。

「優……!」

 呼び止めた私に優が振り返る。その表情にはもうさっきまでの怒りの感情はなく、いつもの穏やかさが戻っていた。

 私は優に近づいて、精一杯の気持ちをこめて言った。

「ごめんね……ごめんなさい」 

「悪いと思ってるならそれでいいよ」

 優はこんな時にも優しくて、やっぱりどうしようもないお人好しだった。優の言いつけを守らず勝手ばかりしてしまった私に、それでも優は笑いかけてくれるのだから。

 私は一体どれだけのことをすればこの人に受けた恩を返せるのだろう。きっと、一生をかけたって足りない。それでもいつかこの人に返すことができたのなら、その時には……。

「ミカーご飯できたぞ!」

 リビングから優の声が聞こえる。私は小走りでリビングに向かった。

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