第77話 謝罪
「まぁ、とてもご丁寧に。ありがとうございますわ」
ローズは若い執事へ礼の言葉をのべながらその導きによりゆっくりと馬車を降りる。
そして、伯爵令嬢をお迎えするべく停車場で整列していた使用人達の前にその姿を現した。
「お……おぉ……こ、これは……」
その瞬間使用人達は自らの仕事を忘れてただ感嘆の声を上げる。
なぜならば、目の前に現れたのは記憶の中にある目つきが悪く仏頂面、いかり肩で優雅さの欠片もないあの悪女ではない。
まるで高名な画家が心血を注ぎ描き上げた名画の如く優美な佇まい、ただそこに居るだけで世界の色が極彩鮮やかになったかと錯覚する程のその華麗な所作、そして全てを優しく包み込むような微笑み。
これ以上を望むべくもない、まさに理想の体現と言うべき貴族令嬢の姿がそこに在ったのだから。
本来伯爵令嬢ともなれば、すぐに皆で頭を下げてお迎えし、送迎部門の執事長が控室までお連れするべく動く所なのだが、古い使用人達はかつて見た若き日のアンネリーゼと見間違え、世代の違う使用人達に関しても、以前のローズを見た事が有る者はそのギャップに声を失い、噂でしか知らなかった者はただその姿に見惚れた。
「コホン……」
ローズを馬車から降ろし終えた若い執事はローズの脇に控えて小さく咳払いをする。
その意味は勿論、呆けている同僚達を正気に戻す為だ。
そして若者はそんな呆けた同僚達の顔に、日頃の鬱憤が少し晴れた気がした。
使用人とは年功序列の世界。
特に王城仕えの使用人は、貴族家の使用人よりもプライドが高い。
勿論使用人と言う立場を弁え態度に示す事は無いが、王城仕えの上級使用人となると下手すると地方の下級貴族などより権力を有するのだから仕方の無い事である。
本来男性使用人の場合、従僕として数年……人によっては何十年もそのままと言う事だってあるのだが、長い下積み期間を経て徐々に実績を積む事により、徐々にその階級を上げていくものだ。
そして栄えある使用人の最高峰である執事の肩書を名乗る事が出来るのである。
しかしながら、この若い執事は元々執事の才能が有ったのではあろうが、その才能を更に伸ばす努力も怠らなかった。
そのお陰か、従僕となって数年も経たぬ内にその優れた働き振りが王城の家令の目に留まり、若くして執事へと異例の昇進と相成ったのである。
その年に執事へと昇進した者は五人居たが、その者達全てこの若い執事より一回りは年齢が離れている事からもその異例さが分かるであろう。
それ程非常に優れた彼なのだが、悲しいかな使用人は年功序列の世界だった。
階級は下でも彼より長く勤めている従僕達は彼の言う事を聞かない。
勤め出した時は優しくしてくれていた者達でさえそうである。
多くの者達は嫉妬に駆られ有能な彼の能力から目を逸らし、ゴマ擦り野郎として陰口を叩いていた。
それは同僚である執事達でさえ変わらず、今回のローズの手を取る役目もある種のいじめの意味合いが含まれていた。
悪女の怒りを買って辞めさせられた使用人の噂は聞き及んでいる。
自分達がそんな目に遭うのは御免被りたい。
だから悪女の相手などゴマ擦り野郎で充分だ……と。
そして先程まさに思惑の通りに悪女へ声を掛けたにも拘らず無視され、更にはそのフォローも満足に出来ないまま固まると言う失態を犯した。
『あいつは終わったな』
若い執事を妬んでいた者達はそうほくそ笑む。
従僕への降格か、それとも首か。
実の所、今まで悪女に辞めさせられた使用人達は、その父であるバルモア伯爵の手によって秘密裏に同等待遇の職場へと斡旋すると言う救済が成されていたが、ここは王城である。
王城と同等の職場? そんな物この国に有る訳がない。
ならば他国の城にでも移住するのか? どちらにせよ自分達の前から居なくなる事は確実だ。
若い執事を妬む者達は皆そう思っていた。
だが、その後すぐに自分達も同じ様に目を奪われ固まってしまうと言う失態を犯すとはその時誰も予見出来た者は居なかったのである。
皆はただ目に映る
勿論ソレとは悪女である筈のローズの姿。
使用人達とて、悪女が心を入れ替えたと言う噂は勿論既に知っている。
だが実際に今のローズの姿を見た者は居らず、心を入れ替えたと言う噂自体いまだ眉唾であった。
城下では号外と言う形でゴシップ記事が流れているが、所詮民草達の戯言だと馬鹿にしていたのだ。
どうやら『聖女の再臨』だとか『子供達の守護天使』だとか騒いでいるようだが、何を言っているバカバカしいと笑っていた。
中には恋人や妻が先日の舞踏会に居合わせたと言う者達も居たが、その時の奇跡の出来事を聞いても、それは『嵐を呼ぶ者』として有名なサーシャ様の新事業発表のデモンストレーションとして聖女を演じただけだろうと、逆に熱く語る恋人や妻を前に口には出さないが心の中では呆れ果てていたのだ。
それ程までに王城仕えの使用人達の間では、今まで行って来たローズの数々の非道に対して下劣な者としての忌避感が強かったのである。
だが、今目の前に現れたローズはどうだ。
城仕えの使用人の中でも送迎部門の者達は、その職場的性質上数多の貴族達を直接その眼で捉え、そして触れ合って来た事により、ある種の人の目利きと言うべき技能を有している者も少なくない。
狡猾な者、温和な者、誠実なる者。
熟練者ともなれば、いくら表面で真意を隠そうとも相手の人相を見るだけで大体のその人の持つ本質を感じ取る事が出来るもの。
そうでなければ他国から来訪する国賓の方々を粗相無く満足させるおもてなしなど出来はしない。
そう、送迎部門の使用人とは城への客人達に対して最初に相対する者達であり、それ即ち自らの対応如何で国に対する印象の好悪を決定付けるものとなる国交上とても重要で責任のある立場なのである。
だから完璧以上に完璧に客人達をお迎えして快くお帰り頂く、それが送迎部門の使用人達の仕事であり誇りでもあった。
その眼を以ってして今馬車から姿を現したローズの本質を視たのだが、多くの者は理解が及ぶ前に思考が止まる。
熟練の執事の中には思考が止まる前にその本質を見抜き、ローズが何かを誤魔化す為にその笑顔を浮かべている事を理解した者も居たのだが、それが逆に思考を混乱の渦へと誘う呼び水となった。
過去のローズの本質を本当は弱い心を隠す為に虚勢を張り周囲に対して攻撃的な態度を取っていると、熟練の執事達は読んでいたが、言ってしまえば可哀想な娘と言えなくもない、しかし彼女は国内有数の権力を持つ伯爵の御令嬢である。
この国においてはその言葉だけで人の人生を簡単に左右する事も出来るのだからたまったものではない。
バルモアの手によって救済がされていようが、本人は卑小なる悪人には違いなかった。
だが、今目の前に居るローズは本当に以前と同じ人間なのか?
確かに若干心の中に不安を抱いているのは読み取れる。
だがこれは当たり前だ。
何しろ後ろ盾であった伯爵が遠い危険な地に赴いているのだし、その最中の火急の事態かの如き国王からの呼び出しと言う事態に、不安を抱かないのは余程の大物か、それとも馬鹿であろう。
しかし、その不安の奥にある心の在り方は、力強い意志と優しい光に満ちている。
なんと言う眩い光!
ひと時だって忘れない、これは慈愛の聖女アンネリーゼ様と同じ心の形だ。
少なくとも熟練の執事の目にはそう映ったのだった。
この場に居る使用人達は各々の想いの果てに巷で流れていた『聖女の再臨』の噂が本当であったと確信する。
だからこそ、その理解し難い事実に先程の若い執事が犯した失態と同じ様に、次に自らがしなければならない送迎部門としての誇りある職務を忘れて固まったのだ。
早く動かなければ! しかし何をどうしたらいいのであったのか?
そんな虚無の思考に陥った使用人達の耳に、「コホン」と若い執事の咳払いが聞こえて来た。
そこでようやく使用人達は正気に戻り、そして何をすべきかを思い出す。
『何をやっているんだ自分は!』と、心に喝を入れながら慌てて姿勢を正し、慈愛の笑みを浮かべたローズに対して恭しく頭を下げた。
「まことに申し訳ありませぬ。我ら一同ローゼリンデ様のお姿に見惚れてしまっておりました。何卒お許し下さい」
送迎部門の執事長は皆を代表して素直に自らの非を詫びた。
本来なら気の利いた事でも言うのだろうが、このローズを前に飾り立てた言葉や嘘を吐くと言う考えが浮かばなかったからだ。
ただ、心のままに謝まる事しか出来なかったのである。
それはこの場にいる者達の総意でもあった。
誰だろうと同じ事を言っただろう。
ローズを怒らせたかも知しれないと言う恐怖は有ったが、それ以上に悔恨の念が強く何を言われても大人しく従おう。
今の彼らの心の中にはそれしかなかった。
噂を信じなかったから悪かったのだ、色眼鏡で人を知った気になって馬鹿にしていたからなのだ。
その様な驕りが送迎部門として有るまじき失態を引き起こしたのだと。
この明らかに異様な空気に包まれた停車場の雰囲気に馬車の御者は息を呑んだ。
彼は王宮送迎馬車の御者と言う職に就いて数十年のベテランだったが、ここまでの異常事態は初めてであった。
大戦中に敵国の使者を自らの馬車に乗せた時でさえここまで緊張した事は無かっただろう。
これから何が起こるのか? ただそれだけを固唾を飲んで見守った。
「こちらこそ申し訳ありませんでした。折角の名誉ある国王様からのご招待であるのに少しばかり考え事をしておりまして、暫しの間この方のエスコートに応えもせずにいた事で皆様も驚かれた事でしょう」
ローズはただ優しく頭を下げている使用人達にそう話し掛ける。
どのような言葉がローズから出てくるのかと息も詰まる思いで待っていた皆は、その予想だにしなかった言葉に驚き思わず頭を上げて正面に目を向けたが、その先に広がる光景にまたもや言葉を失った。
そにはなんと頭を下げたローズが居たのだ。
だが、二度目の失態は決して犯してはならない。
今度は自らの意志で正気に戻り、すぐにすべき事を実行する。
「ローゼリンデ様! お顔を上げて下さいませ。あなた様に非は有らず全て私共の不徳の致すところであります」
「申し訳ありませんでした」
執事長の言葉に続きその場にいる使用人一同、もう一度深く頭を下げた。
「まぁ、皆さまこそ頭を上げて下さいまし。お互いに恥ずかしい所を見られましたと言う事で、今のは無かった事と致しましょう。では改めて、本日はお招き下さって有り難うございます。皆様のお出迎え感謝いたしますわ」
ローズはそう言って両手で軽くドレスをを持ち上げカーテシーを行った。
その優雅な姿に見惚れながらも今度は自らの職務を全うする。
「ようこそおいで下さいました。私共一同ローゼリンデ様のご登城を心より歓迎いたします」
その場に居る使用人は一糸乱れも無く恭しく頭を下げた。
そして皆心の中で、正気に戻してくれた若い執事に感謝の言葉を述べる。
『優しいお方にお変わりになられたローゼリンデ様とは言え、あの時に正気に戻らなければ許していただけなかったであろう。あの素晴らしいローゼリンデ様の側に居て、自分ならば彼の様に堂々としていられるだろうか? しかもいじめていた我らの失態をフォローをするなど。どうやら自分達は彼の事も色眼鏡で見下していたようだ。あとで彼に謝罪しなければ。そして彼の事を認めなければ……』
この日以降、自らの窮地を救ってくれた若い執事をいじめる者は居なくなった。
そして、彼は胸に秘めた恋心を力として今まで以上に執事の仕事に精を出し、やがて城の皆の信頼を得ていく事となる。
少し遠い未来、彼は努力の甲斐あって王宮の家令にまで昇り詰める事になるのだが、その恋心は人生最後の日まで誰にも語られる事はなかった。
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