第29話 王女に声は届かない、だから――

 自分が才賀孝明だとはっきり思い出したのは、たぶん六月の頃。

 倒れてからおおよそ半年ほどが経過している。その前半はほとんど記憶がない、というか意識があったのかすら怪しい。能力によって声は聞こえていたようだが、雲を掴むようなぼんやりとした感触しかない。

 だけど、僕はこうして自我を取り戻した。

 最初は薬の副作用で脳機能に障害が起こったが、それが徐々に回復していったと思われる。一月二十五日の死を回避し、目論見通り美波さん達の声がいい方向に影響したのだろう。

 薬は失敗のようだが、そのおかげで自我を取り戻せたのだから、組織には悪いが不幸中の幸いといえる。


 しかし、大きな問題が生じていた。

 意識が復活しても肉体的には植物状態が続いていた。五感がまるで使えず、周囲の環境がどうなっているのかまったくわからない。

 当然声は出せず、他人と意思疎通する手段もない。

 外部の情報を得る唯一の手段は、僕に触れる他人の思考だけだ。


 そうして今日も、白い世界の中で誰かの声が聞こえてくる。


『なぁ孝明。やっぱ告ったほうがいいかなぁ。でもあっちがどう思ってるかわかんねーしなぁ。俺こういうの苦手だわほんと。そう考えるとお前ってすげぇよ。あの会長に告って堂々と付き合ってます宣言したもんな……どうやったらお前みたいになれるかな』


 それは次郎の声だ。

 彼は僕に向かって悩みを相談したり、時には将来僕とやりたいことをつらつらと楽しそうに想像する。

 なにも反応しない僕に、ずっと友達のように接してくれている。


『はー模試疲れた。ちょっとだけここで休ませて、才賀…………ほんと、寝顔は可愛いわねこいつ……あんたが初恋相手なんてまだ認めたくないけど、まぁしょうがないわよね。なっちゃったものは仕方ない……だからさ、一生残るような失恋の仕方させたら、絶対に許さないから。美波とあたしのためにも起きなさいよ。ちゃんと、祝福させなさい』


 それは佐伯の声だ。

 彼女は僕が理解できていることも知らず赤裸々な感情を曝け出している。

 僕は驚き動揺し、申し訳なさを覚えていたりしたが――やはり、伝えることはできなかった。


『才賀くん、ちょっとずつ痩せてきてる……みーちゃんね、あなたの姿を見ても、泣かへんの。ずっといつも通りで、健気に頑張ってはって……そんなあの人を見るとウチのほうが泣きそうになって……助けてもらったのに、ウチはあの人に、何もしてあげられへん』


 それは星野の声だ。

 優しい彼女は、恩義を感じている美波さんのことをずっと案じてくれている。おかげで美波さんの様子も知ることができた。

 星野曰く、美波さんは周囲の心配を物ともせず真面目に学校に通い、毎日のように僕の病室に通っているという。

 倒れた事情を知っているにしても、起き上がる兆候のない僕に悲しんだり、憔悴したり、諦めることもない。

 きっとまだ、僕が目覚めることを信じているから。


『こんにちはこーくん。今日はすっごい土砂降りに巻き込まれてしまいました。去年もありましたね。それであなたのお家に避難して……何度もお邪魔してたはずなのに、あのときは凄くドキドキしたなぁ』


『こんにちはこーくん。病室に飾るお花を替えてみました。香り、わかるでしょうか? 少しだけでも季節を感じてもらえたらいいのですが』


『こんにちはこーくん。今日は久々に家族でご飯を食べに行くんです。何年ぶりかなぁ……あなたにも混ざってもらって、次は四人で行きたいです』


『こんにちは、こーくん。あのね――』『こんちは、こーくん――』『こんにちは――』


 僕を呼ぶ声が、美波さんの途切れることのない来訪を告げる。

 その度に僕は無力感と、こんなはずではなかったという焦りに苛まれる。

 なにもできない僕はただ、彼女の声を聞き続けた。

 だが、待っている間に、僕の状態に変化が訪れる。


『半年が経過しても予後不良、か。遷延性意識障害がここまで続けばもう絶望的だな……そろそろ、患者の家族に伝えるしかないか』


 それは、しばしば聞こえてくる僕の担当医の声だった。

 経過観察の声によって僕は自分の肉体を客観的に知ることができた。

 意識は戻っているのに、やはり外側からだと回復しているように見えないらしい。

 狼狽した僕はなんとか肉体を動かそうと足掻いた。けれど肉体の感覚がない今の状態では、誰にも意思を伝えられない。

 このままだと延命治療はストップされ、僕は死ぬ。

 

『……こんにちは、こーくん。今日、担当医の方からお母様たちに、延命治療を続けるかどうかの話があったそうです』


 燻ぶる焦りの中、美波さんの声が聞こえた。彼女は暗く、沈んだ様子だった。


『これ以上の長期ケアにあまり意味はないと、告知されたそうです。植物状態になった人の大半は六ヶ月以内に死亡し、残りも二年から五年ほどで亡くなると……だから、家族でよく話し合って選択をと、迫られました。医者の仕事とはいえ、残酷ですよね。お母様は、泣き崩れていらっしゃいました』


 胸の感覚があったのなら、鈍痛が走っていたことだろう。

 母を辛い目に遭わせ、そんな姿を美波さんに報告させているこの状況に自分自身への怒りが沸き起こる。目覚めたら地面に頭をついて土下座して謝りたい。

 でも、できない。

 僕はただ、声を聞くしかできない。


『ですが、安心してください。あなたは必ず目覚める、だから信じて待ちましょうと伝えておきました。辛い日々だとしても私がお母様達を支えます。あなたの帰りを待ち続けます……だから、こーくん。この言葉を聞いているなら、応えてください』


 美波さんの言葉に、僕は酷くショックを受けた。

 応えたい。応えたいのに、気持ちが逸るだけで何も変わらない。

 それどころか罪悪感が芽生え、迷いが心の侵食を始める。

 母を、父を、このまま縛り付けてもいいのか?

 僕なんかのために不安と悲しみを強いていいのか?

 何より、このままでは美波さんが幸せになれない。

 僕を待ち続けて、幸せのはずがない。

 諦めさせた方がいいんじゃないのか。

 ……そうだ。僕はそのために、この道を選んでいる。

 彼女が延命し、僕のことを忘れる時間を稼ぐために。

 だから、そうなっても構わない。


 夏が終わって、秋の季節に入る頃になっても、美波さんは僕の病室に通い続けた。

 彼女は変わらなかった。ひたすらに、僕が目覚めることを信じて待ち続けていた。

 僕は祈った。彼女の声が聞こえなくなることを。

 僕なんか忘れて幸せになってくれることを。

 なぜ彼女が変わらないのか、理解できなかった。

 

『久しぶりだな、才賀』


 その日に聞こえた声は、誰のものだかわからなかった。


『さながら眠り姫ならぬ眠りの王子ね。しかし物語の構造はまるで違う。眠り姫は救われるのを待っているが、眠りの王子である君は、こうなることで王女を救おうとしたわけだ』


 白衣姿の女性教諭が浮かんだが、しかし先生の声とは似ても似つかない。

 いや、そもそも先生の心の声を、僕は聞いたことがなかった。


『提示された方法は君にとってうってつけの話だったろうな。自分が死ねば最愛の人も自分を追って死んでしまう。だが植物状態になれば、たとえ意識がなくとも目覚める可能性を提示しておけば、あの王女は生き続ける。その結果として自分が目覚めなかったとしても、死体同然の男に対する恋心は色あせ、次の幸せを見つけてくれるはずと君は計算していた』


 ――どうして。

 声の主はなぜ、僕の本心を知っている?


『しかしな、才賀。ちょっと舐めすぎじゃないか。王女のことも、君自身のことも。彼女が問題の先延ばし程度で諦める人間だとでも? 君は知らないだろうがな、繰り返したタイムリープの数を知れば、とてもじゃないが生温い考えだったと思い知る』


 わからない。声の主が僕の隠し事を指摘している、その意図が。

 ただ、この言葉にはどうしてか、じっとりとした怒りが湧く。


『そして君は自分自身のことも何もわかっちゃいない。過去の自分が力に溺れ他人を傷つけた傲慢な人間だったから、後悔と共に他人を優先するようになった――とでも思ったか? そんな偽善が君の本性のわけがないだろう』

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