第29話 副会長と王女 下 ―希海side―
涙が滲み出る。
彼女のそばにいれば、ありのままに生きて幸せになる方法が見付かる気がしていた。それは間違いだったかもしれない。
現実を突きつけられた希海の視界は、ぐらぐらと揺れていた。
「思うがままに在ればいいんですよ、希海」
その声は、荒んだ希海の心に優しく溶け込んだ。
「優等生を演じていたと言いましたけど、それはかつての話です。私は自分の好きなように生きることにしました。こーくんを誘ったこともその一つです。公私混同と批判されても、私は私の望む通りにしたかった」
「……どうして?」
「もう、後悔したくないんです」
迷いなく言い切った美波は、そのときだけ人が違ったような印象だった。
「彼には病気というハンディがあるかもしれない。でも私は、彼に生徒会を手伝ってもらいたい。孝明君ならきっとどんなことがあっても私を支えてくれるし、希海たちを助けてくれる。そういう芯の強さがある人ですから……なにより、好きな人と生徒会を作っていく一生の思い出を捨てるとか、選択肢としてありえます?」
茶目っ気のある台詞に希海はびっくりする。
今の美波は、そこいらにいる少女とほとんど変わらない。希海が理想とした姿とは何一つ被らない。
だからこそ、これが彼女の素なのだと思える。
「これから私の評判は随分と変わるでしょう。でもそれでいいと思っています」
「怖く、ないの? その、イメージと全然違うって笑われたり、馬鹿にされるかもしれないのに」
「だって、そうしなければ私は満足できない」
弾む声が、希海の奥の何かに触れた。
美波は自分がやりたいことを貫こうとしている。周囲の評判を物ともせず、我を押し通そうとしている。
それこそ希海の求める生き方ではなかっただろうか?
「演じているだけのときはなにも楽しくなかった。でも自由に過ごしている今は、こーくんのいる生徒会であなたたちと一緒に仕事をすることは、楽しくて仕方がないから」
希海は心の中で首肯する。イライラすることはあったが、窮屈だと感じたことはなかった。
そんな雰囲気を作ったのは美波だ。彼女が周囲のイメージに縛られず動いたからこそ居心地の良さが生まれている。美波の生徒会にいれば希海は昔のままいられるかもしれない。
だけど、完璧を求める自分がその居心地の良さを壊してしまう。
思うがままに過ごすことで皆との関係に亀裂が生じることを、希海は経験則から知っている。
希海は美波が、今の生徒会メンバーが心から好きだった。
だから嫌われる前に、自分を殺すしかないと判断した。
「……あたしは、美波みたいになれない。だって自分の思うとおりにやったら敵ばっかり作る。疎まれるし孤立する」
涙で視界がぼやける。こぼれ落ちないように唇を噛みしめる。
「現に、生徒会にも色々口出しして、迷惑かけてる……美波だってもう、あたしのこと鬱陶しいでしょう?」
「なにを馬鹿なことを」
声は近くから聞こえた。ハッとした希海の前には美波がいた。
彼女はこちらのすぐ近くに移動して腰を下ろしている。
「誰もあなたのことを鬱陶しいなんて言っていませんよ?」
「でも――」
「こーくんから聞かなかったのですか? 私はあなたのことを頼りにしているし、筋が通った格好良い人だと思ってるんです。あなたの考えは常にしっかりしている。参考になることも多い。さすが副会長として認められた人です」
美波の手が希海の手を優しく握る。暖かくて柔らかい。
「あなたにお願いがあります」
「お願い……?」
「私はこの通り好きなように生きると決めました。ですから前と違って、生徒会によからぬことをしでかすかもしれません。そのときは副会長のあなたがしっかり判断してください。そうすれば間違った方向へ行くこともない」
「……なによ、それ。随分と自分勝手な頼みね」
「ええ。わかってて言ってますから」
胸を張って言い返された瞬間、希海はぷっと噴き出してしまった。
その拍子に溜まっていた涙が、頬をぽろぽろとこぼれ落ちていく。
「だから、この生徒会に居てください」
まるで希海の決断を見透かし、引き留めるような台詞だった。
……いや、美波はもうとっくに気づいていたのかもしれない。
希海は唇を噛みしめる。
「いいの? たぶんあんたのこと姑みたいに口うるさく注意したり、やること否定したりするよ?」
「意見が違うのは当然です」
「あたしの望む生徒会にしようとするよ?」
「方向性が同じであれば問題ないですし、違っても徹底的に議論すればいい」
彼女は自分を遠ざけるでも落胆するでもなく、同じ立場で向き合ってくれると言ってくれた。
涙が後から後から湧いてくる。
「といっても私も負けるつもりはありませんので。自分の理想通りにいかなくてもヒステリーは起こさないでね、希海?」
「はは……言うじゃん美波」袖で涙を拭いながら、希海は笑う。
「悪いけどあたしすんごい負けず嫌いだから。負けたら泣きわめくから」
「うわぁ。それはちょっと大人げない」
「それがあたしだもん」
美波は驚いたように柳眉を上げた。
それから、彼女の目尻がふっと柔らかくなる。
「まぁ泣きわめく子は廊下に放り出せばいいとして」
「鬼か」
「私であればいつでも受けて立ちます。ただしこーくんはあまり困らせないであげてね」
「うわぁ。公私混同が甚だしい」
「それが私ですから」
意趣返しされた希海はけらけらと笑う。
対照的に美波の頬はぴくりとも動かない。笑わない王女はこんなときでも無表情を維持している。
けれど希海は思った――本当は心の中で、自分と同じくらい笑っているのではないかな、と。
「っていうかあんた才賀にべた惚れじゃん。あいつのどこがそんなに好きなの?」
「全部」
「お、おう」
こればかりはまったくわからない。
……いや、そうでもないかもしれない。
「あいつのこと引っ張ってこようと思うくらいだから、あんたのほうから惚れたのよね」
「うーん、ちょっとそこは複雑と言いますか。近いものはあるのですけど」
美波は頬に指を当ててごにょごにょと誤魔化す。「よくわからないけど」希海はいたずらっぽく笑う。
「男を見る目はあるわよね、美波。あんな隠れ優良物件よく見つけてきたもんだわ」
「……あげませんからね?」
「理想の彼氏に近いのよね~」
「希海!」
「わわわ待ってちょっと押さないで」
美波が肩をがくがくと揺さぶるので後方に倒れてしまう。希海と美波がもみくちゃになっていると「どうした!?」ドアを開けた孝明が飛び込んでくる。
「凄い音したけどなに、が……」
孝明は絡み合った二人を見てぽっと頬を赤らめると「どうぞ続けて」そっとドアを閉めて出て行った。
希海と美波は顔を見合わせる。
「……なんかあいつ勘違いしてるわよ」
「しょうがない人ですねぇほんと」
「ねぇ美波、ちょっと耳貸して」
「? いいですけど」
顔を近づけてきた美波にこそこそと耳打ちする。
ふんふんと聞いていた美波は「わかりました」と即決していた。
「素のあんたって割とノリいいわよね」
「色々隠してたお仕置きです。あとこーくんのうろたえる可愛い姿が見たい」
「はは、いい趣味してるわ。でも、あたしも見てみたい」
ひとしきり笑った希海は、立ち上がってドアを開ける。
それからの出来事は愉快の一言だった。
孝明には美波のことが好きになってしまったと告げ、希海は擬似的な三角関係の場を作った。
美波を賭けてお前に決闘を申し込むと言ったら孝明は真に受けてしまって物凄く真剣に悩み始めた。
さすがに申し訳なくなって種明かしすると、孝明は脱力して床にへたり込んでしまう。そこまで安堵するほどのことかと思った希海だが、からかったお詫びにめちゃくちゃ褒めちぎってやった。するとムキになった美波まで孝明の褒め言葉を言い始めるものだから、褒め合戦みたいな様相になってしまう。意味がわからなさすぎてしまいには希海は爆笑していた。
終始照れている孝明も可愛らしいものだから、いいものが見れたと希海はその日ずっと上機嫌で過ごした。
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