第61話 官能

六十一

 「へえ。読むことにしてくれたの?」

僕はスミレさんの読んでいたウェーバーの本を読むことにしました。

「面白いですね」


 僕は半分も読んでいないのにもかかわらず、適当な感想を言いました。僕はこの本を買った理由も読んでいる理由も分からなくなりました。全く面白くないのです。おそらく、僕の知識不足のせいでしょう。


 しかし、それだけでは説明がつかないような気がしました。


 スミレさんは、僕が本の内容をだいたい知っているはずだと思ったのか、ずっと、ウェーバーの話をしていました。僕は彼女の話を黙って聞いていました。僕は相づちを打って、彼女の話を聞いているフリをしました。


 次第に僕は彼女の話ではなく、彼女の胸に目がいきました。僕はその曲線美に酔いしれていました。大げさに言えば、初めてスミレさんの胸を見たような気がしました。


 「どうしたの?」

そう言われて、僕は彼女の目を見ました。

「なんでもないですよ」

僕はそういって、誤魔化しました。


 どうして、僕は彼女の胸を見ていたのでしょうか?僕は自分の心の中に疚しさがあるような気がしました。それと同時に、僕の中に抑えがたい欲望が湧いてくるのです。なんといっても、豊満な胸なのです。君でも見惚れてしまうかもしれません。


 振り返ると、僕は情欲というものを初めてスミレさんに抱いたのです。今まで、これといって、僕の官能を刺激することがなかった彼女が誘惑者として、僕の前に現れたのです。だからといって、彼女が僕を誘惑しているなどと言うつもりはありません。ただ、僕の主観にとって、彼女は誘惑者となったのです。


 これを「初恋」と言っていいのでしょうか。君は僕をどう思いますか。恋って、こういう淫らな気持ちを言うのでしょうか。恋って、情欲を言い直したものにすぎないのでしょうか。僕は自分が抱いた欲望を恋だといって、美化する権利を持たない男でした。より正確に言えば、情欲を恋だと言うのにためらいがありました。


「話、聞いているの?」

そう聞き返されたとき、僕は申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。彼女はたんに知的な会話をする相手として、僕に話しかけているだけです。


 しかし、僕はその要望に応じることができなかったのです。彼女と一緒にいたいと思いつつも、この場を立ち去らねばならないという心境にもなりました。


「ちょっと、話が難しくて」

「ごめんね。なかなか、こういう話ができる人いなくて、つい調子に乗っちゃった」

「大丈夫ですよ」


 ただの話し相手にすぎない自分を恨めしいと思いながら、家路に着きました。

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