第60話 敬慕

六十

 僕はまたその喫茶店に行きました。習慣になっていたのです。すると、僕はまた彼女に会いました。彼女は本をカウンターに置いて、コーヒーを飲んでいました。


 僕は彼女ではなく、彼女が置いた本の方が気になりました。彼女が読んでいたのは、ウェーバーの本でした。そのときの僕はウェーバーについて全く知りませんでした。しかし、彼女が教養豊かな女性に見えました。


 僕が本を読み始めると、彼女は腕時計を見て、立ち上がりました。僕は彼女の全身をなぞるように見ました。背が高い。僕はそういった印象を強く持ちました。彼女は準備を済ませ、会計を終えて、喫茶店を出ました。


 その後、何度か僕は喫茶店で彼女に会いました。回数を重ねるごとに、彼女は僕を認識するようになった気がします。


 僕が話しかけたのか、それとも彼女が話しかけたのかは忘れましたが、僕は彼女と話すことができるようになったのです。そして、彼女の名前がスミレであることを知りました。


 「いつも小説を読んでいるよね?」

「はい」

「何を読んでいるの?」

「『リア王』です」

「シェイクスピアね」

「はい」

「『マクベス』なら、読んだことあるよ」

「あるんですか」

僕は思わず、声を上げました。


「そんなに驚くことなの」

「なかなか、そういう人に会ったことなくて」

「私もよ。確かに。大学生にもそんなにいないかも」

「スミレさんは、大学生なんですか」

「言ってなかったか」

「初耳です。何年生なんですか?」

「3年よ」

「どういうこと、勉強しているんですか?」

「社会学って言って、分かる?」

「ピンとこないです」

「高校で社会学は勉強しないもんね。ウェーバーって、知らない?」

「誰ですか?」

「知らないよね」

「前に読んでいた本の人ですか?プロなんとか」

「そうそう。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』」

「長いタイトルですね」


 僕は生まれて初めて、女性と楽しく話すことができました。僕は自分の知らないことを知っているスミレさんを慕うようになりました。


 このときは何事もなく、時が過ぎると思っていました。しかし、次第に僕は自分の本性というものに気づかされていくのです。僕は普通の人間のような恋をすることができない人間なのです。

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