第59話 表紙

五十九

 僕は君に一度も話したことがない恋の話を綴っていこうと思います。ただ、この出来事を恋と言っていいのかは今の自分でも分かりません。


 駅の近くに小さい喫茶店がありました。僕は高校生になってから、休日はその喫茶店に足繫く通うにようになりました。特段、コーヒーが好きなわけでも、そこの店主に親しみを覚えたわけでもありません。


 ただ、落ち着いて本を読むことができる場所だったのです。それに、そこの店主は本が好きなのか喫茶店の本棚に多くの本を並べていました。


 西洋の文学作品が国別かつ年代順に並んでいました。本の配置そのものが文学史となっていたのです。僕はこの秩序だった本棚を見るのが好きでした。


 「返してくれるのであれば、好きに読んでいい」という店主の言葉に甘え、僕は好きなだけ、本を読みました。シェリー、ウェルズ、オーウェル、ハクスリーといったイギリス文学、トルストイ、ドストエフスキーといったロシア文学に心惹かれたものです。


 常に僕はカウンターの左端に座っていました。注文をした後に、高校の宿題を解いたり、本を読んだりしました。そんな折、三つ席を空けて、女性がカウンターに座りました。僕はこの人を一目見た時、何も感じませんでした。それよりも、自分が読んでいる本に夢中でした。


 しかし、彼女がバックから本を出した時、僕は不思議とその本に目線を移しました。周りに読書を趣味とする人がいなかったものですから、自分以外の人が何を読むのかが気になったのです。


 しかし、何を読んでいるのかは分かりませんでした。辛うじて分かったのは、岩波文庫だということだけでした。赤いラインが入った岩波文庫だったため、おそらく、何らかの文学作品を読んでいたはずです。


 岩波文庫を読む人がいることに僕は驚きました。岩波文庫とは、思想・哲学、文学を翻訳している文庫です。本を読むのが趣味であり、古典的な著作を読もうとする人以外はあまり手を出さない文庫です。彼女の知的水準が高いのだと思いました。


 何を読んでいるのかが分からなかったため、視線を自分の本の方に戻しました。すると、今度は向こうの方からの視線を感じます。彼女は僕の本に目を向けました。彼女も僕と同じように、僕が何を読んでいるのかが気になったようです。


 僕は左端に座っていたため、表表紙が彼女の目に映ったはずです。僕はシェイクスピア『リア王』を読んでいました。


 視線のちょっとしたやりとりがあるだけで、物事は何も進みませんでした。そこにあるのは、たんなる沈黙でした。

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