第33話 最期

三十三

 3月3日のことだった。

「当分、会えなくなりますね」

「そうだねえ。まあ、当分どころじゃないかもしれないねえ。注文しようか」

藤原はカシスオレンジを頼み、本田はビールを頼んだ。

「乾杯」

グラスがキーンという音を立てた。


 藤原はガブガブと飲み始めた。グラスには半分しか残っていなかった。

「一杯でやめておくよ」

「藤原さん、泣き上戸ですもんね」

「まあね」


「もう卒業するんですね」

「ああ、そうだな。切ないもんだねえ。名残惜しいよ」

「僕も名残惜しいです。こうして、藤原さんと会えなくなるのは」

「いいこと言ってくれるねえ。嬉しいよ」

「大学院に行くんですよね?」

「そうだよ」

「哲学の研究をするんですか?」

「まあね。でも、なんか哲学は飽きたなあ」

「いいんですか。それで?」


「ダメだと思うよ。でも最近は新約聖書を読んでいるんだよねえ」

「新約聖書ですか?」

「その中でも、マタイ伝っていうのが面白いんだ」

「そうなんですね」

「とっても、心に刺さる教えだよ」

「そんなにいいんですか?」

そう言いつつも、本田は興味が持てなかった。

「詳しい話はやめておこう」


 本田はずっとこのマタイ伝というものが気になっていた。このとき、もう少し詳しく聞いていれば、藤原の自殺の原因の手がかりになると考えていた。


 「あっちで、注文を取っている店員さん、可愛いよねえ」

酔った藤原はとある店員を小さく指さした。

「まあ、可愛いですね」

「いい女だねえ」

「ああいう人がタイプなんですか?」

「何でもタイプだよ。オレは」

「へえ、そういうの関心あるんですか?」

「あるよ。人は知識だけでは生きてはいけないよ」

「そうですけど」

「すみません」

藤原は自分が指さした店員を呼んだ。


 「はい」

その店員はぶっきらぼうな返事をした。

「カシスオレンジ、一つ」

「一杯でやめるんじゃないんですか?」

「今日は最後の日だから、飲もうよ。本田くんも」

「泣かないでくださいよ」

「泣かない、泣かない」


 藤原はカシスオレンジを飲み終えた。そこに新しいカシスオレンジがやってきた。

「ペース考えてください」

「分かった。分かった」


 藤原は追加の注文をした。本田は藤原を咎めようとはしなかった。案の定、藤原は泣き始めた。


「いやあ、オレはバカだねえ」

藤原は自分に対してそう言っているようだった。

「どうしたんですか?急に」

「酒のせいかな」

「何か嫌なことがあったんですか?」

「あるよ、そりゃあ、男だから」

「何があったんです?」

「言わねえよ。言うのは気が引ける。本田くんにはオレの苦しみなんか分からない」


 本田は何も言うことができなかった。そして、藤原は酒を飲み続けた。そのせいで、藤原の呂律が回らなくなった。本田は藤原が何を言っているのかが分からなかった。藤原が寝込んだため、お開きとなった。


 本田はなんとか藤原をアパートまで運んだ。これが二人の最後のシーンだった。そして、3月4日、事件は起こった。藤原は橋から川へ身を投げた。

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