第30話 欲望

三十

 それからも本田は藤原に会い続けた。藤原は陽気にジョークを言うだけだった。藤原は読んだ本の話や自分が得た知識について語ることを好んだ。


 本田はそれに耳を傾けながらも、いつも物足りなさを覚えた。どんなに聞いても、藤原という人間が何者なのかが分からなかった。けれども、それが藤原の魅力だった。


 「最後の年になったねえ」

藤原は4年生になり、本田は2年生になった。

「藤原さんは卒業したら、どうするんですか?」

「大学院にいくんじゃんないの」

藤原は他人事のように答えた。

「だから、今勉強として英文を読んでいるんですね」

「まあねえ」


 藤原が座っているテーブルには洋書と辞書があった。

「僕がいては勉強の邪魔ですか?」

「そんなことないよ」

そう言って、藤原は洋書を閉じて、シャーペンを置いた。


 進路を見据えて勉強している人が、その後に自ら命を絶つとは今の本田にとっても考え難かった。


「卒論、何を書くんですか?」

「カントって、知っている?」

「知ってますよ。定言命法ですよね」

「そうそう。ニーチェだの、マルクスだの読んでいたがねえ、最もカントの教えが胸に響くんだ。カントは人間の弱さを最も理解している」


「どういうことですか?」

「人間っていうのはいろんな欲を持っているだろう。そして、欲に引きずり込まれながらも、精一杯生きようとする。人間は常に欲と戦わなくちゃならない。そういうところが、一番分かっているのがカントだねえ」

「へえ」


 本田は藤原の言いたいことがよく分からなかった。けれども、思い返してみれば、藤原が何らかの欲望と戦っていたのだということだけはなんとか理解できた。しかし、その内実が全く分からなかった。


「多分、本田くんにはカントの良さが分からんだろうねえ」

「そもそも、読んだことないんで」

「読んでも分からんさ。君は欲があまりない人間だからねえ。オレみたいに欲深くて、自分勝手な人間だけがカントの良さが分かる」

「藤原さんは欲深いんですか?」

「ああ、だからいつも他人が輝いて見える。そして、自分が愚かに見える」


 本田は静かに藤原の目を見た。その暗い瞳の奥にある何かをつかみたかった。


 けれども、藤原は壁をつくっていた。どんなに仲が良くなっても、藤原はその壁の向こう側に本田を招き入れるつもりがなかった。本田は藤原と一緒にいても、切なくなった。

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