ヒトノモノ

Kusakari

プロローグ

第1話 回顧

 アスファルトで舗装された道に足をつけた時、ずっしりとした感覚が突然彼に湧きおこった。さらに、もう一歩踏み出した。また、ずっしりとした。


 おそらく、この地を歩くのがもう少しで最後になるからであろう。一歩、一歩、彼は自らの罪を実感し、歩くごとに足が重くなった。


 けれども、前に進むしかなく、彼は後ろを決して見なかった。


 冬が終わって、春になりかけていた。そのせいもあって、雲が流れていくスピードが速くなり、一つ一つの雲が群れになって、直線のようになっていた。山や大きな建物がないせいで、空が近くにあって、雲がより近くに感じた。そして、雲は彼が歩いていく方向と同じだった。


 けれども、雲の方が彼よりも速かった。まるで、彼は雲に導かれているようだった。


 彼にとって、もう見慣れた風景がどうでもいいものになっていた。彼は雲の動きと太陽しか注意を向けなかった。同じ道を歩く他人すら、どうでもいいものになっていた。車が彼を追い越していく。彼は車を視線で追いかけようともしなかった。


 そのうち、彼はあらゆることがどうでもよくなった。ただ、その地を歩き、生きているという事実がそこにあるだけだった。


 ドラックストア、コンビニ、いきつけのカフェ、アパート。それらを通り抜けると、大きな橋が見えた。橋に足をつける前に、彼は川底を覗こうとした。


 しかし、川面が光を反射して、川底を見ることはできなかった。川は海に向かって流れていく。きれいだった。この海の色に染まりたい。彼は漠然とそう思った。


 ようやく、彼は橋を渡り切った。そこで、彼は橋の欄干から頭を下げて川を見た。逃げ水のように川が光っていた。


 けれども、その川は全く逃げる気配がなかった。彼から一歩を踏み出せば、それだけでよかった。けれども、彼は頭を上げた。あまりにも川と橋が離れていたからだ。


 彼は仕方なく、後ろを振り向いて、もとの道をとぼとぼと帰っていった。もうすでに、雲の群れは彼の視界からいなくなっている。彼の視界にあるのは、逃げ水のように輝く川の色の残像だった。川面が手招きをしているような気がする。


 けれども、彼は後ろ髪を引かれるように歩みを進めていった。次第に歩幅が広くなる。それでも、川のイメージが頭に浮かぶ。


 あらゆる川が海へとつながる。すべての川が一つになる。あの時のすべてが溶け合うような感覚。自分も他人も世界も忘れられるような感覚。もう二度とあの感覚に帰れない。

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