第95話『Nichi』



 真っ暗な中で体感したのは腹部に掛かる圧迫感と、一瞬の浮遊の後に来た衝撃だった。



「客ハ勧誘シタ。すかうと業ハ廃業スル」


「ぐっ……」



 羽熊に続いてトムの声がする。


 感触からして座席のクッション。おそらく飛行車に押し込まれてしまったのだろう。


 いよいよもって危険だ。〝ひたち〟やイルフォルンから離れられ、他国に行ってしまうと救助の可能性はほぼ無くなる。


 羽熊、いや、日本に住む人なら拉致の怖さは皆知っている。


 今ここで逃げ出さなければチャンスは来ない。


 なのに、スタンガンの痺れから体がうまく動かない。



 テレビでテーザー銃やスタンガンを受けた人が、直立姿勢で硬直しているのを見たことがある。


 てっきり気絶してしまっているのかと思ったが、意識はあるのに指一つ動かせない。スタンガンの電気が脳から出る電気信号を遮断しているからだ。


 精神論で無理にでも動かそうとしても、それを上回る物理的障害が阻害する。


 ドアが閉まる音と共に飛行車が動き出す感覚が痺れと共に来た。


 まずいまずいまずいまずい。


 何でもいい、少しでも打破する何かを考えろ。


 羽熊は感電で狭まった思考力をフルに働かせて策を考える。


 何とかなることを期待してはいけない。警護が甘かったなどと誰かを責めても意味はない。


 とにかく最悪の未来を少しでもマシな未来に自力で返るのだ。



「か……かっ」



 トムが何かしゃべろうとしているのか、暗闇の中かすれた声がする。


 その声で一つ、スタンガンを解く案を思いついた。


 口が回るのも覚束ないが、それでも言う。



「イ、息……ガ」


 マルターニ語で「息」の単語を絞り出し、同時に出来ている呼吸を止めた。


「息……」


「オイ、コイツ息出来テナイゾ」


 鼻先に何かが来る気配。拉致犯の手だろう。


「チッ、異星人ニハ威力ガ強スギタカ、死ナレタラ困ル。すたんがんトますくヲ取ッテ息ヲサセロ。ドウセ、モウ逃ゲ出セン」



 マルターニ語でそうした指示が出ると、腹部から全身を駆け巡る痺れと痛みが引き、マスクが取られた。


 まばゆい光で目が眩む、なんてことはない。元々深夜帯で飛行車に押し込められたのだ。マスクを取られても見えるのは暗い車内だった。


「かっ、かはっ……」



 異星人だからこそ出来る誤解だ。


 実のところ地球人とリーアンの違いは、生体レヴィロン機関の有無と筋肉配列を除いて同じだ。遺伝子は人種レベルでの違いでしかなく、ゆえにハーフが生まれることが出来る。


 リーアンに有効なスタンガンなら地球人にも同じ効力を持つ。


 しかし、異星人と言う偏見に満ち溢れていると、異星人だから効力が強すぎる誤解をさせることが出来るのだ。


 開けた視界に映るは以前乗せてもらったのと同じ異地製の飛行車の車内の後部座席。


 横幅がある飛行車ゆえに、羽熊とトムは横倒しでもスペースがあり、右片側のドアに覆面を被ったリーアンが一人。中央運転席に一人リーアンがいた。


 どうやら二人組の犯行のようで、後部座席に座るリーアンの手には異地製の拳銃が握られていた。



「動クナヨ」



 雰囲気からしてチンピラや裏市場の金目的での素人とは思えない。


 プロの人間だ。


 持続的な感電がなくなったことで、ぎこちないが少しずつ指先や足が動くようになる。


 けどスタンガンロープは巻き付いたままだ。なにかしようとすればすぐさま感電させてしまうだろう。


 右手首にはスマートウォッチの『Nichi』の感触があることに気付いた。


 元々は左手首に付けていたが、昨日の刺傷テロの治療で身に付けられなくなって右手に付け直したのだ。Nichiは身分証の役目やバイタルチェックもしているから外すことは出来ないし、こうした拉致に備えて現在位置を伝える機能もある。



 機密上、そうした運用は知らされてはいないが、いなければならない〝ひたち〟から無許可で移動すればセンサーが働いて知らせてくれているかもしれない。


 しかし、この場合で〝かもしれない〟を前提した考えは危険だ。


 機能が働いてくれれば助かる確率は飛躍的にあがるが、ひょっとしたらこのスタンガンの影響で機能不全を起こしている可能性もある。


 悟られて捨てられることを避けるためにはNichiに視線を向けることも避けねばならない。


 機能していると信じつつ、機能していない前提で物事を考えなければならないのだ。



「オ前タチハ何者ダ」



 口が動くようになり、羽熊は問いかけた。


 答えるとは思っていなかったが、返って来たのは拳だった。


 頬に重い衝撃が襲い、視界と脳がブレる。



「黙ッテロ、異星人。空ニ立テナイ下等人種ガ質問スルンジャネェヨ」



 口の中に鉄の味が広がる。


 顔を殴られたのは人生で初めてだ。顔を殴られると口の中を切るのは知っていても、たった一発で切ってしまうとは思わなかった。


 この拉致犯、挙手一投足全てに暴力を振るって黙らせる気だ。


 自由に動けない中で、逐一殴れば殴りなれていない人は黙り込む。


 抵抗する気が失われる。


 かと言って黙っていたら待っているのは地獄だ。


 何をしても殴られるなら、その覚悟で足掻く。


 一人は銃を持ち、一人は飛行車を運転している。三人目は見られないが、座席に隠れて小柄のリーアンがいる可能性を捨てない。



 少なくとも銃はハッタリだ。貴重な異星人を攫うのに、当たり所によっては死なせてしまう銃はまず使えない。銃を構えるのは脅しで使っても殴打くらいだろう。


 ただ、ドラマや映画でよく見るが、銃のグリップ部分は十分凶器になる。


 トムは倒れたまま動けず、二人の腹部には変わらずスタンガンロープが巻かれて銃を持つ男へと伸びている。


 何かしようと思えば暴力と凶器、さらには拘束ロープスタンガンによる感電。



 場所は密室の車内に加えて上空数百メートル。


 空を飛ぶのが常識のリーアンからしたら逃げられないか心配するだろうが、地球人からしたらそれだけで身動きが取れなくなる。


 外に出たら死ぬから、ドアに注意を払う必要はない。


 地球人からしたらこれ以上ない監禁だ。


 窓の外は漆黒で新月なのか月も見えない。ただ、カーナビなのか液晶が光って車内を淡く照らしている。


 この程度の明かりでは護衛艦からも悟られないのだろう。



「フン、流石ハ最新すてるす浮遊艇ダナ。いるりはらん軍ノれーだーニ引ッカカラナイトハ」



 今までマルターニ語で話していた運転手は、突然エルデロー語でぼやいた。


 羽熊は目を見開く程度の表現で抑えるが、内心は驚きで一杯になった。


 エルデロー語は、イルリハラン王国があるマルターニ大陸の右隣にあるメロストロ小大陸とエルデロー大陸の共通言語だ。


 おそらく言っても分からないからエルデロー語を使っているのだろうが、他言語の言葉も習い始めている羽熊は、話すことは出来なくとも単語の聞き取りくらいは出来た。



 驚きなのが、マルターニ語とエルデローは日本語と英語なくらい違いがある。大陸ごとに言語が統一されているとバイリンガルである人は少ない。


 ゆえにエルデロー語を使い、イルリハラン軍のレーダーを掻い潜るステルスと単語が出るなら、この二人は世界二位の国力を持つメロストロ合衆国か順ずる国の軍人か諜報員の可能性がある。



「コノママ、コノ先ノ巨木林ヲ抜ケテ仲間ト合流スルゾ。巨木林二入レバ、確実ニれーだーニ捕捉サレナイカラナ」



 転移して一年にもならないなら、マルターニ語ならともかく他大陸の言語まで学んでいるとは思わないのだろう。


 伝わらないなら話したところで情報漏えいにはならないが、羽熊は異地第一人者の言語学者だ。エルデロー語に触れている故に、敵情報は取得されていく。


 少なくともこの諜報員は地球人を下等人種と見下している。それが脱出の糸口になる。


 羽熊は薄暗いことを利用して右手首を視界の端に捉えるようにして見る。



 地球産スマートウォッチは電気消費を抑えるために水平にしないと何も表示しないが、いま装着しているNichiは体温から常時充電されるから薄く点灯し続ける。


 Nichiはスタンガンの電気に耐えていた。


 なら『あの機能』は働いてくれるだろう。


 幸い両手は手錠や結束バンドで拘束されていないから、スタンガンロープさえ対処出来れば逃げ出すことは出来る。ロープで腕ごと縛られているわけでもないからフリーでもある。


 そうしたことを考えながら羽熊はふと思う。



 転移当初と比べて随分と変わった、と。


 転移してから今日まで、異地社会と国家存続と言う重圧と戦ってきた結果だ。このような状況でも悲観せず、比較的冷静に物事を考えられるようになった。


 本人としては変わってないと思いつつも、日々の経験が良し悪し問わず着実で静かに自分を変えていく。


 考えを戻して一つ懸念を浮かび上がらせる。



 懸念はトムへの意思表示が出来ない事だ。


 声を掛ければきっと暴力が来て黙らせに来るから何も言えないし、知り合って間もないから目線での意思疎通も出来ない。


 羽熊が自衛隊員ならうまく立ち回れたかもしれないが、あいにくと度胸が鍛えられつつある一般人だ。成功する確率も低い。


 しかし、動かなければ地獄が百パーセント来てしまうから、成功率が低くても希望を引き寄せるしかない。



「は、博士……」


「黙レ!」


 一切声を出させる気はないらしく、トムの声にも銃を持つリーアンは反応する。


「待ッテ! 静カニスルカラ!」


 羽熊はトムを庇うように身を乗り出すと、再び顔面を殴られた。


「っぐ!」


 殴られた反動で、起き上がろうとするトムに覆いかぶさるように倒れた。


「トムさん、静かに」


 これ幸いにと囁くように羽熊は言う。


「あとで暴れて、ここから飛び降ります。パラシュートに時計のレヴィロン機関を使います」



 トムは驚いた表情で羽熊の顔を見た。


 パラシュートもなしで飛び降りると言うのだ。スカイダイビングに慣れた人でなければ全員正気かと疑うだろう。


「じゃないと日本に帰れない」


 髪を掴まれて上半身を起こされた。


「黙ッテロ!」



 鼻に骨まで響く痛みが襲った。硬さから銃のグリップで殴ったのだ。


 やはり銃は鈍器で従来の使い方はしないようだ。


 鼻から鼻水とは違う粘土の体液が出てきて口の中へと入る。これまた鉄の味で、鼻血が出たのだと悟った。


 鼻が折れたことがないから折れてしまったのか分からない。痛みと感触と鼻血の量から、多分折れていないと見る。



「…………!」


 折れてないとしても激痛には違いなく、羽熊は鼻血が出ない程度で鼻を摘まんで悶えるが、隙間から絶え間なく漏れ続け、ぽたぽたとシートや服に落ちる。


「チッ、貧弱ナ人種メ」


 例えリーアンであっても怪我は免れない強さだった。差別的思想を持つと人は上から目線をしたがる。


「は……」



 羽熊は言いかけるトムの口を、血で汚れていない左手で塞いだ。


 これ以上声を出して殴られるのは困る。


 鼻血は出続け、右手の手のひらに血が溜まっては座席に零れ落ちていく。


「巨木林二入ルゾ」


 運転手の声に合わせて車体が斜めに揺れ始めた。巨木林を通るために避けているのだ。


 この時を羽熊は待っていた。


 チャンスは一度っきり。成功の確率は限りなく低い。


 けど、やるしかない。


 羽熊の目では窓の外は漆黒のままで何も見えないが、運転手は見えているようでハンドルを切り返す。


 銃を持つリーアン側に車体が傾いた瞬間。


 羽熊は動いた。



 声を出さず、ただ右手を静かに銃を持つリーアンに向けて振ったのだ。


 手のひらに溜まった鼻血が車内を飛び、輪郭だけが見えるリーアンの顔に掛かる。


「バッ! 何ダ!?」


 すぐさま右手でスタンガンロープを掴んで引き寄せてスイッチを入れさせないようにし、左手で銃に手を伸ばした。


「コノ! 離セッ!」



 いくら撃たれないとしても引き金を引いてしまえば撃たれて致命傷を受けてしまう。よって下から上に向けるように銃を掴み、最低限銃口が上に向くようにして奪おうとする。


「トムさん! ドア開けろ!」


 単純で簡潔な指示を叫ぶ。


 左手に強い痛みが走った。つい数時間前にペンで刺された傷口が悲鳴を上げているのだ。


 だとしてもここで痛みに負けてしまえば、報復として想像したくない暴力を受けるのは必至だ。ならば例え傷口が開いてしまっても耐えて抗うない。



 パン!



 一瞬の閃光に耳鳴りがするほどの高音が車内に響き渡った。


 男の指が引き金を引いて発砲したのだ。


 海外映画でしかまず聞かない銃の発砲音。テレビで見るより数倍大きく、空気を震わす振動は畏怖を感じさせるほどだった。


 人を自然界で最強の位置に持って来た道具であることが、文字通り一発で分かった。


 一発でも受ければそれで終わるとし、銃口を上に向ける左腕はより力が籠る。


 羽熊の右手は男の左手の袖を手探りで掴んで横やりをさせないようにする。



「ソイツヲサッサト黙ラセロ!」


 運転席から声が飛ぶ。


「コイツ……下等人種ノ癖ニ力強イ」


 振り払おうと銃の男は腕を左右に振るが、羽熊も握る強さを緩めずに食らい続ける。これが俗にいう火事場の馬鹿力なのだろう。


 さらに数発弾が発射され、天井に発砲音と同じ穴が開いた。


 このまま全弾撃たせて弾切れを狙うか考えると、後方でドアが開く音がした。


「羽熊さん、開けまシた!」



 トムが後部ドアを開けたのだ。


 リーアンであれば空に飛べるから逃がさないようにするも、地球人なら落ちて死ぬから左右のドアを固める必要はない。


 その慢心が逃げ口を作ってくれた。


 直後、バツンと羽熊の左腕から嫌な感触がした。ドロッとした液体が出る感覚。


 ペンで刺され、縫って塞いだ傷口が開いたのだ。


 痛みは変わらないのに、まるで力がそこから漏れ出るように左腕の力が弱まった。


 銃口が次第に上から水平へと傾きだす。


 顔は見えないが、無駄な抵抗だったなと笑っているのが分かる。


 羽熊はここで、地球人とリーアンの決定的な違いがあることを思い出した。


 リーアンは生体レヴィロン機関で空に浮けるよう進化したことで、同時に不要となった脚が一本に退化。足も骨のない脂肪の塊となっている。



 つまり足蹴りが出来ないのだ。



 脚はその太さから腕の数倍の力がある。投げるより蹴る方が飛距離があるのはそのためだ。


 羽熊は座ったまま、左足を上げて横蹴りを放った。それによって重心が後ろに下がるが、銃に手を伸ばしている左手が体を支え、足は男の脇腹にヒットする。


「ギッ!」


 自身も他人も配慮しない全力の蹴りが脇腹に当たると男は悲痛の声を上げ、反動で一発銃声が響いた。


 その銃口の先には運転席がある。


 瞬間、飛行車が大きく水平から直角へと角度を変えた。


 放たれた銃弾が運転手に命中したのだ。よって倒れ込む時にハンドルも巻き込んで開いたドアが下に向くように角度が変わった。


 チャンスなら今。



「トムさん、飛び降りろ!」


「ほ、本当にデスカ!?」


 地球人としてはまず言わない命令に、事前に伝えたとはいえしがみつくトムは驚きの声を上げた。


 こうなれば強制的にと羽熊は男を掴んでいる両手を開いて、自由落下でトムを道連れに車外へと落ちた。


「おわあああああああああ!」



 心構えがあったとしても未経験の自由落下で叫ばない人はいない。


 つんざくような風の音しか聞こえないのに、トムの絶叫は羽熊の耳にも届いた。


 このままでは二人そろって即死は確実だが、当然対策は施してある。


 空に生活圏を置く異地社会と、地に生活圏を置く日本社会が共存するのだ。こうした事態を想定した対策は当然打ってある。


 万が一落下した時に備え、自動的に起動するレヴィロン機関を羽熊たちは身に着けていたのだ。


 日イが共同で開発した初の合作。スマートウォッチ『Nichi』にである。


 これには人一人分を浮かせるレヴィロン機関を組み込んでおり、高度計で急速な落下を感知すると自動的に所持者の落下速度を軽減してくれる。


 ただ、急ごしらえであるため欠点もあった。


「ぐぎぎ……」



 羽熊とトムが身に着けるNichiはすぐにレヴィロン機関が機能して、ゆっくりと秒速一メートルへと減速する。


 しかし、レヴィロン機関の特性上、腕に巻き付く程度ではレヴィロン機関は人体を一つの固体としては認識してくれず、腕時計だけが宙に浮く形となるのだ。


 よって全体重が手首に掛かる形となり、片手懸垂するように身に着けている逆の手でNichiを掴まなければNichiのベルトが壊れてしまう。


 おそらくトムもだろうが、羽熊は受けたレクチャーの通りに左手でNichiを握り、左右で自重を支える。一体今自分が地上何メートルの高さにいるのか分からないが、地上に着くまではこの体制を維持しなければならない。


 と、遠くで赤い閃光が煌めいた。



 運転手を失った飛行車が巨木に突っ込んだのだろう。


 内燃機関でガソリンを使っているから、時速数百キロで壁にぶつかれば爆発はともかく燃料に引火して燃える。


 ただ、逃げ出せた喜びより手首の締め付けの方がつらく、とにかく地面に着くまで懸垂をし続けた。


「はっ……はっ……はっ……」


 地面に足が着いたのは五分以上経ったあとであった。


 星々の光も届かない巨木林の漆黒では、目に見える指標がないからいつ地面に届くのかも分からない。


 終わりが分からない懸垂は想像以上に体力を使い、刺傷テロに拉致に脱出と数時間のうちに様々なことが起こり、睡眠不足もあって大地の感触を四つん這いになりながら覚えつつ粗く息をする。



 生きてる。



 死んでも不思議ではない状況に、羽熊は自分が生きていることを再認する。


 それだけで目の奥が熱くなり、涙が込み上げてくるがグッとこらえた。生きてはいても、まだ助かってはいない。


「トムさん! トムさん!」


 生きていることを十分実感した後、大声でトムの名を叫んだ。


 レヴィロン機関は自動的に働くから、ベルトが破損しなければ無事に着地しているはずだ。


 ほぼ同じタイミングで落ち、レヴィロン機関で横風を受けなければそう離れてはいないだろう。


 もしかしたら銃を持った男が衝突前に脱出している可能性があるため、羽熊は叫ぶのは二回に留めた。


「……ハ、博士」


 漆黒の闇の中、どこからかトムの声が聞こえた。



「トムさん、無事ですか?」


 声が聞こえるなら大声を出す必要はない。普段の声量で話しかける。


「し、死ぬかト思いましタガ……生きてマふ」


 羽熊は右手のNichiのバックライトを使って周囲を見渡す。スマートフォンと違って光量は少ないが、それでも漆黒ゆえに多少は周囲を照らせた。


 着地した場所は腰まで草が伸びている巨木林の中で、声の方に歩くと人一人分草が広がっている部分があった。


「トムさん?」


 覗き込むと、蹲るようにトムが横たわっていた。



「だ、大丈夫ですか?」


「し、死ぬ、かト…………思いマシた」


「すみません。でもこうしないと逃げ出せなかったので」


「寿命……十年クらイ縮まリマしタ」


「立てますか?」


「ちょっと待ってもラっていいでスカ? 腰が抜けテ……」


「……もちろんです」



 どの道自分の手でさえ輪郭が見える程度では移動は出来ない。異星の森の中と安心できる要素は何一つないが、下手に移動するよりは気持ちを落ち着かせる方が先決だ。


 羽熊もトムのすぐ隣の草の上へと腰を下ろした。


 雨はここ三日は降ってはいないためか地面は濡れてはいない。


 冷たさこそあっても、火照った体にはちょうど良かった。


 羽熊はそのまま光量を最小にしてNichiを操作する。


「……うっ……!」


 飛行車にいた時は点灯するか否かしか見ていなかったが、落ち着いて操作したことであることに気付いた。同時に冷や汗が出る。


「博士、どウかしマシたか?」


「Nichiが壊れてる。時間がデタラメだ」



 体内時計であれば今は深夜三時から三時半ほどだが、Nichiの時刻は三十四時を差していた。秒数も一定ではないし、不規則な数字を刻んでいる。


 可動こそしていても中身は狂っていたのだ。


「私のモです」


「あのスタンガンでやられたかもしれないですね。レヴィロン機関は無事に動いてよかったです」


「もし働いてなかったラ、今頃死んでマシた」


「知らぬが仏ですけど……もう一つ悪い話があります。現在位置を知らせる発信器も機能してません。トムさんのも調べてもらっていいですか?」



 急ごしらえで製造したからか、それとも別の要因かは分からないが、発信器のアプリも機能していなかった。


 これでは発信器を頼りに羽熊たちを探してくれることは期待できない。


「では、戻レないんデスか?」


「何か手を考えないとなりませんね」


 一人就寝する羽熊と違い、須川とSPに声を掛けたトムの失踪はすぐさま気づいて動くだろう。もしかしたら現在位置が消失した時点で動いているかもしれない。


 何であれ今現在で向こうは動いているはずだ。


 しかし、今いる場所が分からなければ探しようがない。


「……とにかく少し休みましょう。下手に動いて怪我をしては困りますし。あ、でも寝ないようにして下さい」



 雨風、土に動物をしのぐことが出来ない中での睡眠は危険だ。


 新月で明かりがなければ、いくら夜行性の動物も動きはしないだろう。


 今でも非常に眠気が襲って来てはいるものの、寝てはならないと自分自身に言い聞かせる。


 トムは少しずつ落ち着いたのか上半身だけ起こし、羽熊と背中合わせで座り合うことにした。


 ただ、何も言わなければ眠ってしまいそうなので会話を続ける。



「博士、体は大丈夫でスか?」


「多分顔と左腕は血まみれですね。左腕は傷口が開いて、顔は鼻血が渇いてパリパリしてます」


「ソレ、大丈夫なんですカ?」


「貧血で倒れないことを祈るばかりです」


「……急転直下とはコノことですネ。つい数時間前まデは楽しい異星観光でシタのに」


「災難は畳みかけて来ますから。これで打ち止めと行きたいところです」


「琴乃さん、大丈夫かな。私がいないト味方がいなくなってシマイマす」


「自分の心配より須川の心配ですか」


「夫でスし、いま不安定ですカラ。側にいてあげないト」


「……喫煙所の時に聞きたかったんですけど、どうしてほぼ初対面の須川のことを気にするんですか? 結婚してても、愛がなければ他人でしょう?」


「愛シてますよ?」


「もしかして、亡くなった奥さんか娘さんと共通するところがあるとか?」


「いえ、何もないでスね」


「ないのに愛してるんですか?」



 夜明けまで数時間と会話をするには時間はたっぷりある。


 トムは遠くで引火した飛行車が自然沈下する時間を使ってその理由を話してくれた。


 トムは仕事人間でレヴィアン問題がピークに達している時も仕事をしていたそうだ。仕事をするごとで従業員と家族の生活が少しでもマシになる考えから、事業が不能になるまで仕事を続けていたらしい。


 ゆえに家族との時間を疎かにしてしまったが、トムとしては少しでもおいしい物を食べさせてやりたくて蔑ろにはしていなかった。


 しかしレヴィアン問題に関連したトラブルで妻子が亡くなってしまった。


 その遺品のスマートフォンには家族三人の写真ばかりが残っていて、トムは少しでも長く家族の側にいるべきだったと後悔したらしい。


 悲しい経験から同じような経験を他の人にしてほしくなく、転移後はアーク代表として外国人家族支援を行い、結婚にしろ交際にしろ、万が一付き合うのならその人を大事にしようと決めた。


 その後村田の策略とはいえ須川と結婚して、今回のことをしてしまっても無条件の味方をしようと勤めていたとのこと。



「周りかラ見たら異常なノハ分かってます。デも、私の中ではコれが二人への贖罪ナンです」


「凄いですね。俺ならそんな考えは出来ないです」


「……ですけど、博士、もし二人の内どちらカシか助からなけレば私を見捨テてくだサイ」


「なに、言ってるんですか」


「私が死んでモ遺産は琴乃さんに行キマす。借金さえなンとかなれば、味方はイナクなっても大丈夫でしょう。デモ、博士は生き続けなケればなりマセン。私ノ命より大事です」


「トムさん、どれだけ聖人なんですか。俺は誰かを身代わりにして生き残っても、喜べるほど人間腐ってません。二人でちゃんと日本に帰るんです」


「私も帰りたいでス。モシもの場合ですよ」


「二人で帰るんですよ。お互い、会いたい人がいるんですから」


「……はい」



 おそらく動いているであろう両政府は、この拉致自体なかったこととして全力の救出を考えているはずだ。


 見捨てる選択肢は両国にない。


 イルリハラン王国は警備の不備として面目丸つぶれだし、日本政府としてもアーク絡みで異星人へのヘイトを集めることは避けたい。日本人が拉致されたとなれば地球時代のこともあって異星人への憎悪は高まり、先のテロが成功した同等の成果を村田に与えてしまう。


 利害の一致から、公表はせず秘密裏な救出を考えているだろう。



 発信機はその秘密裏の救出を可能とする唯一の方法だったが、機能しないなら別の方法を考えねばならない。


 両政府は羽熊たちが拉致半ばで脱出しているとは考えていないから、近隣の浮遊都市や国境に別件として検問を張るだろう。だが可能性の中に脱出は含むはずだから、何かしらの異変と言う手掛かりを探してもいるはずだ。



「トムさん、いま何を持ってるか教えてもらっていいですか?」


「持ってるモノですか? 時計以外ならタバコとライターですね。他は持ってナイです」


「俺は……タバコはどこかで落として、ライターだけ……」


「火はつケられますネ。狼煙でもあゲマすか?」


「……多分ここはイルフォルンから二百キロから二百五十キロ。ならイルフォルンは地平線の下には行っていないので、巨大な狼煙を上げれば気づいてくれるかもしれません」


「けどどうヤって巨大な狼煙を上げマスか?」


「ここは幸い巨木林の中です。巨木の一本を燃やせばビル一棟の火災と同じ煙が出せます」



 直径四十から五十メートル。高さ百から二百メートルの巨木は日本の大型ビル一棟と同じだ。


 テレビで見るビル火災を見れば、その煙の量は十分イルフォルンに伝えることが出来る。



「……博士、私は一昨年くラいまでよくキャンプをしていまシたが、生きた木は相当乾燥しテイナいと燃えませンよ? それも山火事レベルの炎でなければまず燃えません」



 マッチ一本火事の元とは言うが、生きた木を全焼させるのはまず不可能だ。焚火をする薪はそれ用に乾燥させた木を使う。水分をたくさん含んでいる生きた木にライターの火を当てても、表面が焦げるだけで燃えはしない。



「一つ方法があります。夜が明けなければ動けませんが、ある木があれば狼煙を上げられます」



 羽熊は異地第一人者として活動をすると決めてから、広く浅く異地の知識を貪欲に学び続けている。


 エルデロー語を学んでいるのもその一環だし、誰に何を聞かれても答えられるようルィルや接続地域に来る人と交流をしながら聞き続けた。



 その膨大な知識の中から、羽熊は一つ打開策を考え付いていた。

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