第88話 『ヴィッツ』



 異地の西の地平線に日が沈み、三日月状に欠けた月が無数の星々と共に夜空を回る。



 人口の光が無ければわずかな輪郭しか見えない広大な夜間だが、三つの光が地上から数百メートルの位置で眩く光っていた。


 太陽よりはるかに光量が少ないため地上を明るく照らすことはないが、はるか遠くからでも存在が確認できる程度には明かりがあった。


 宇宙空間から見てもその光は確認でき、疎らながらそうした光は世界各地で見受けられる。



 自然と科学がほぼ切り離された異地社会の象徴である天空島だ。


 その天空島が放つ光は大中小と大きさがあり、その三つの光の間をさらに小さな光が行き来している。大きい光を放つイルフォルンと中くらいの光を放つ居住用天空島のランバーから、小さい光のスタジアム用天空島へとである。


 三つの島々はそれぞれ数キロずつ離れており、その間を定期便や個人の飛行車が行き来しているのだ。


 今夜は特に一番小さい光を放つスタジアム用天空島への行き来が激しかった。



「すごい人……」



 形こそ新国立競技場系に近いが三倍は大きいであろうスタジアム上空で、鍬田はバス型浮遊艇の窓に張り付くようにして見ながら感想を呟いた。



「十五万人収容できて、それが満席だからね」



 そう羽熊が知ってる知識を披露する。


 今回は異地の生活環境により、レースはバス型浮遊艇から観戦することになっている。これはリーアンに注目され過ぎてレース観戦に集中できない事と、個室を作ることで群衆に紛れての拉致まがいの事件を未然に防ぐためだ。


 百人が観戦するには官民一台ずつ二台では見難いので、一台二十人片側によっても余裕がある五台を使って観戦することとなっていた。



 羽熊たちが乗るバスは政府の人が乗るグループで、公式には存在しない鍬田はもちろん佐々木総理、王室代表としてエミリルや護衛のルィルもいる。


 そして警戒しなければならないトム夫妻もだ。


 とはいえ証拠が何もないので、内心不安を抱く程度で具体的なことは何もしない。


 ちなみにトム夫妻が同席していることに羽熊は一切関与していない。



 元々佐々木総理とアーク代表のトムはこの旅行中に非公式の会談をする予定だったのだが、分単位でスケジュールが決まっている総理と都合が合わず、この時しかなかったからのようだ。


 トム夫妻は後部座席に前後で座っており、トムは色々と前の席に座る須川に声を掛けている。


 しかし今朝と顔つきがあまり変わっておらず、やつれた顔で返事にも答えず窓から外を眺めていた。



「十五万人って多いんですか?」


 そんな要人だらけの中、肝っ玉の据わっている鍬田は気にしない顔ぶりで疑問を投げかける。


「東京ドームで確か四万人くらいだったからその三倍以上だね」


「ほえー、さすが専用の天空島を作るだけありますね」


「むしろそれだけ人が来ないと維持が出来ないんだろうね」



 日本に限らず、世界中のスタジアムは常に経営難で赤字で黒字は多くないと聞く。天空島丸ごとスタジアムなら、なおさら客が来なければ維持は難しいだろう。


 そういう意味では、客寄せパンダとなる日本人が来る事はスタジアムにとっても喜ばしい事と言える。



「でもドームみたいに屋根があるわけじゃないんですよね。これじゃ外からタダで見放題じゃないですか」


「リーアンの習性から閉鎖環境は好まないんだよ。多分罰金とか何らかの処罰を設けてるんじゃないかな」


「きっとすごい高額なんでしょうね」



 スタジアムの内部は地球のスタジアムと似ている。


 観客は宙に浮かずにすり鉢状に配置され、客席を確保するためか幅はあまりない。違うと言えば階段がなく、出入り口の周囲はそのまま座席となっていた。


 リーアンは空を飛べるから直接空から座れるので、座っている人の前を通らないのはメリットがある。デメリットと言えば空間がないから圧迫感が強そうだ。


 五台のバス型浮遊艇は開けた屋根からスタジアム内部へと入り、観客側五ヶ所へと広がって微動してスタジアム内を周回する。


 高さは床と天井から見て四分の三程度の位置。ヴィッツ用浮遊障害物がやや斜め下で見ることが出来る位置取りだ。ここは観客席でも特等席相当で、ダイアモンドビジョン含め選手の動向が一番見やすいとされる。



「あの浮いてるのが障害物ですか」


「そう。公式ルールは距離によって変わるんだけど、決まった数の障害物を配置して、チェックポイントリングを定位置に設置するの」



 障害物の形は様々だ。大中小の正方形に三角錐に三角柱、球体に円柱。その他さまざまな形の障害物。さらには上下左右に動くギミック用障害物もあった。



「……なんか昔テレビで見たことがある感じだな」



 話からパルクールを想像していたが、実際にコースを見てみると二十年近く前にテレビで人気だった視聴者参加型のバラエティ番組の一コーナーと似ている気がした。


 電流の走る枠内を棒を差し込んでスライドさせ、様々な仕掛けを攻略して賞金を手にする物だ。


 さすがにヴィッツは障害物に触れたところで即リタイアではないが、怪我を負うしタイムも落ちるから似ていなくもない。



「テレビで似たのあったんですか?」


「鍬田さんは幼稚園の頃だから覚えてないかな」


「……知らないですね」


「ネットで調べたら色々と出るよ。確かおもちゃも出てたと思う。その立体版だね」


「ルィルさん、これって下手したら壁に正面衝突して死んだりしません?」


「昔は堅い素材だったから首の骨を折る人がたくさんいたわね。今は首にコルセットを付けるのが義務づけられてるし、障害物はスポンジで出来てるから心配ないわ。万が一気を失って落ちても床もスポンジになってるから最悪骨折で済むしね」



「これ、レースごとに配置を変えるんですか?」


「コースが決まっていると事前に最善コースを決められるからね。選手が入場する直前でコンピューターが決めた配置に変更にするの」


「じゃあ事前に知ることは出来ないんですか?」


「コンピューターで決める前まではたまにあったわね。さすがに人の手を介さないようになったらなくなったけど、もしやったら選手生命は終わりよ。それと障害物のないコース外に出てショートカットすると、一つ障害物を乗り越えるたびに十秒ペナルティが課せられるしね」



 そこは陸上競技と似たペナルティーだろう。


 障害物の数とスタートからゴールまでの距離が変わらなければ不公平さはないということだ。


 チェックポイントリングはおよそ五十メートルごとに一つずつコースの中央に置かれている。   


楽な隙間の多い道を通っても、チェックポイントを通らなければならないから多少の危険を覚悟して険しい道を通らなければ勝てない。


 各選手全てが瞬間的に通れるコースを見極めなければならず、障害物で相手選手が見えないから勝っているのか負けているのかも分からない。


 さらに一つ障害物をかわしたその先がどうなっているのか分からないから、驚異的な反射神経を駆使してそのさらに先を見据えてのコースを選択するのだ。



 地球の徒競走なら人種の違いで結果が見え隠れするが、ヴィッツに関しては下剋上が容易だ。例え高ランクの選手と低ランクの選手がレースをしても、十分な秒差をもって低ランクの選手が勝つこともあり得る。


 一瞬の判断の遅れで勝敗が決まるのだから、選手にとっても観客にとっても手汗握る勝負を堪能できて人気が出るのも頷けた。



「それで今日は我が国の中でもトップランカーの選手ばっかり出るらしいわ」


 なんでもイルリハラン国籍の選手は世界ランキングでもトップに食い込むらしい。


「急なことだから大丈夫かと言われていたらしいけど即答だったらしいわ。調整が大変だったらしいけど、異星人に自分のレースを見せられるなら喜んで出てくれるって」



 実際はバス越しだから選手や観客からは直接的に見えるわけではない。しかし異星人が実際にいる事実は変わらないし、レースを見るために来てもいるからモチベーションは上がるのだろう。


 歓声は最高潮。客席もほぼ満席。


 あと三十分ほどでレースが始まる。



      *



 佐々木総理のスケジュールは分単位で決まっており、緊急事態でなければあまり融通は利かない。


 それは異星国家観光旅行でも変わらず、移動時間ですら何かしらの仕事をこなしていた。


 テレビの中では国会中継でのやり取りが目立ち、自身や閣僚の失言や動向で各メディアで様々な反応するので身近に感じるが、内閣総理大臣の仕事は多忙で責任も重い。


 国土転移以前なら大したイメージは持たせられなかったが、国土転移によって総理のイメージは大きく変わった。



 日本列島が一部を残したとはいえ海ごと異星に転移する前代未聞の超常現象。対策の失敗で全滅をしても不思議ではなかった事態を、無事に乗り越えて今に至れたのは、国民全員の協力はもちろんのこと、素早く対策を実施し続けた政府であり行政のトップである総理大臣の手腕によるものだ。


 異地に関わる問題。国内に関わる問題。常に山積する問題に、何らかの判断や決断をしなければならないため、どれだけ時間があっても総理大臣には足りないのだ。


 ゆえに非公式の会談を割り込ませるのは楽そうで難しい。


 かと言って公式の会談を組むのも難しいのがアークだ。



 アークの管轄は公安で、総理が直接アークに関わることはない。


 しかし百万人にもなる在日外国人の潜在的不安は拭えず、佐々木総理自身個人的にアークの代表と会談をしたかった。


 とはいえあいそれと会談をすることは出来ず、こうした待ち時間を利用しての非公式の会談となったのだった。


 非公式ゆえに何かを判断することはない。ただ話をするだけだ。



「佐々木総理、今回は大事なお時間ヲ使っていただいテアりがとうごザいます」


「いえ、私自身、アークの代表とはお話をしたかったので」



 佐々木総理とトム代表はスタジアムの客席側へと座り、互いに挨拶をして握手をする。



「代表を含め、在日外国人の方々には不便を強いています」


「状況が状況なノで理解はしております。そレデも、国籍の強制変更には不満の声ガ多いです。私たちは日本の事は大好きデスが、同じヨウに自分の国のことモ愛していマすので」


「分かっています。逆であれば同じように不満を抱いていたでしょう。我々がしていることはある意味祖国を奪っているのと同じですから」


「そうしなければなラナイことも分かっていマす。祖国が無けレバ、それを証明すルコトが出来ませんノで」



 アークが懸念される過激派組織ではないことは、普段の活動と公安からの報告から分かっている。元々日本に定住している人々だ。日本社会の中で数年から数十年と暮らしている人々が残っているのだから、武力で意思表示する過激派の思想をそもそも持っていない。


 アーク幹部も、名誉会長であるノアを除いて全員役員は国内企業の社長や役員をして身分がはっきりしており、秘密裏に過激派になることはないと分かっていた。


 それとは別に不満は解消するのが行政のトップである総理の仕事であるため、アークに対して耳を傾けているのだ。



「ですがナニか別の、我々がもウ少し妥協できる案を考え出してモライタいのが本音でス」


「このことについては与党からも批判の声がありましてね。代案を考えているところです」



 人権に配慮しつつ、現行法または一部改正で百万人を納得させる案は中々出ない。だがほとんどの在日外国人が不満を抱いている案を貫くわけにもいかない。


 全員とはいかずとも、七割以上は納得出来る案を考えるのが仕事なのだ。



「期待しています」


「トムさん、この場をお借りして聞きたいのですが、アークは独立を考えていますか?」


 佐々木総理は単刀直入に最大の懸念を訪ねた。


「ありません」


 トムは即答する。



「日本の施政下での各国の文化ヲ模倣した自治体は構想にアりますが、そレは合法ト自由意思に則ってです。武力や同意なしでスルようなことは一切ありまセン」


「日本と敵対する意思はないと」


「敵対スル理由も意思も方法もあリませんよ。ただ、地球がどうなッているのか分かラず、もし地球人類がこの星で住む人ダケなら、せめて祖国があった証トシテ文化を残したイと思っただけデす」


「情報ではたきつけたのはノアと言う人物らしいですが」


「ノアについてはノーコメントでス」


 内調を使ってもノアについては分かっていない。


「失礼。自治体ですが、現状は何もできないですね。おそらく日本領ユーストルを考えての案と思いますが、安全保障が未整備なので拉致などの事件を警戒しなければなりませんし、天空島はラッサロンクラスで建造費が原子力空母十隻分と出ているので、移住は愚か建造も出来るか分かりません」



 天空島に関しては内部情報の開示が異地からされていないため、日本式で考えるとそれだけの規模になる。おそらく異地式の天空島はかなり簡素に出来ているだろうが、純国産で建造するとそうなる試算だ。


 そもそも異地社会は天空島がメインと思われがちだが、天空島より巨木都市の方が割合は多い。分かりやすく言えば都会は天空島で、田舎は巨木都市と言う感じだ。


 日本でも東京や大阪等と都会に目が行くが、居住地の割合では田舎の方が多い。



「空母十隻分デスカ……」


「あくまで日本の建築法に合わせてのことでして、異地での建築法なら安くはなるでしょう」


「自治体にツイテは難しいと私も考えていまス。なにせ日本全土に各国の人々ガ住んで生活をしているんです。その生活を捨てテまで来るメリットはナイでしょう」



 戦後直前ならまだしも、現代で強制な移住や詐欺まがいの条件は設けられない。仮に自治区整備が出来ても、住民が来るかどうかはその人次第で今までの生活を捨てるのだから覚悟が必要だ。


 住めば都ならぬ、住めば母国だとしても安易な決断は出来ないだろう。


 そうなるとアークの活動目的のもう一つもつぶれることになる。



「確かアークは国連相当の組織の創設を目的だったと思いますが」


「アークの中でも中韓の人々が考えている目的デすね。国連と言うよりは、日本の政策に意見できる立場が欲しがっているソウですけど、役員の中でハ反対派が占めてマす」



 政府への批判は野党やメディア、国民の権利である。


 独立や国連相当の組織を作ったところで、内政干渉だからそもそも意見をしようがない。


 多国籍の人々が集うから国連と考えたのだろうが、作った瞬間に日本の加護は消えて組織内で全てを完結させなければならなくなる。


 大分甘い考えで国連と言う目標を抱えているのが見え見えだ。



「たダ、アークの中でも過半数ヲ中韓の人々が占めるので、無視するワケにもいかナいのです」



 その中韓の人々も全員がそう望んでいるわけではなくても、分母が大きければそう考える人も多いのだろう。



「ですが役員会として日本からの独立は望んでいません。望んでいるのは各国文化の保全と住民の穏便な生活です」


「アークも一枚岩ではない、ということですか」


「人が増えればそうなるのハ必然ですよ。でも、過激派だけはイナいと断言しマす」


「そう願います」


 ひとまず触れられるだけのアークの内情を直に聞くことが出来た。



「総理、そろそろ時間です」


 非公式の会談でも時間管理はされている。時間を計っていたSPが声を掛けて来た。


「トムさん、残念ですか時間が来てしまいました」


「お話が出来て光栄でした。全ての問題の解決とマデは望みませんが、我々の悩みを少しデも考えてもらえると嬉しく思いマス」


「在日外国人百万人も大事な同胞で、見限ることは何があろうとありえません。人種や国籍は違えど、地球人類には変わらないのですから。私達もあなたたちも同じ境遇であれば総理として考えるのは当然ですよ」



 佐々木総理とトム代表は握手をし、トムは元々の席へと移動していった。


「……地球人か」


 自分が発した言葉が引っかかり、復唱して思考を巡らせる。


 ひょっとしたら問題の一つの突破口となるかもしれないからだ。


 レースが、間もなく始まる。



      *



『これより、ニホンのイルフォルン観光を記念した親善レースを開催する』


 時間が来たことでダイヤモンドビジョンにハウアー国王が映し出された。


 合わせて今までよりもさらに倍の大歓声が、スタジアムの客席からあふれ出た。


『空にはニホン国首相を含む、ニホンを代表してこられた百人の異星人が観戦しに来ている。ヴィッツは我が国、そして世界中で人気のスポーツである。季節外のレースではあるが、各選手は己の経験と技量を駆使して最速を目指してほしい』


 ハウアー国王は右手を天に上げる。



『親善レースの開催を宣言する』



 歓声は最高潮に達する。


「なんでこんなのに加熱すんのかな」


 須川は心底冷めた目で、理解できない熱狂で満たされるスタジアム内を見下ろす。


 元々スポーツは嫌いではなく、国際試合では日本を応援するくらいには好きであったが、この一年間で荒んだ心が好き嫌いを逆転させた。


 今ではスポーツに限らず、ありとあらゆるイベントごとが須川は嫌いとなった。何かとイベントは大衆が喜ぶイメージしかないから嫌いになり、そこから湧き出る歓声が苦痛で仕方なかった。



 自分は常に心を痛めて苦しんでいるのに、そんなことを知らない者たちが喜ぶ姿を見たくないからだ。


 これから、その歓声を逆転させてやる。


 指示書ではチャンスがあればやるように言われていて、指示書を貰った時は観光五日目の別れの晩餐会でする予定だった。


 しかし幸運にも同じバスにターゲットがいる。


 実行するには今が絶好の機会だ。


 狭い空間にターゲットとして申し分ない相手。数メートルの移動くらいなら周りも反応は出来ないし、周りは初めての異星人のスポーツで夢中になる。



 今回を逃してしまったら次の機会はもう来ないだろう。


 してしまった先は長く続く暗闇だろうが、全員を不幸に陥れられるなら、いい。


 世の中不公平にも、全員が幸せになることは出来ないのに全員が不幸になることは出来る。


 だから不幸を振りまく。それも国家レベルの不幸を。



「琴乃さん、始まりますよ。この世界で一番人気のスポーツが」


 総理との非公式の会談を終えて戻って来たトムは、無邪気な子供のように須川に語り掛けてくる。その無邪気な声もまた苦痛だ。


「そうですね」


 もう少しでその声を反転させられると、期待を胸に疑われないよう平常心を装って返す。



「一瞬の気の迷いで順位がどんどん入れ替わルし、ランキングに関係ナク平等に勝負ができルノはいいですネ」


「そう」


「人種とか国籍とか関係ない。度胸と技量と反射神経、そして運がモノを言うんです。結果が分からないから面白いですよ」



 そうトムは説明するが微塵も興奮しない。むしろしでかした後のほうが考えるだけ興奮する。


 全部破滅させてやる。幸福と言う幸福を。


 下の会場では障害物が動き始め、左右上下と配置される。いくつかは左右や上下、回転とギミックだろうか規則的に回転をし、ダイヤモンドビジョンには至近距離から撮影されたコース一周が表示された。



 コース配置が完了するとダイヤモンドビジョンは上下に二分割されて二つの文字に切り替わり、右隅にも読めない文字が現れた。


 二分割された文字の背景には異星人の顔も映り、右隅の文字が変更しだしたところから選手とカウントダウンと察する。


 カウントダウンに合わせて歓声も変わる。


 大方十秒だろうと十回数字が変わるのを待ち、その十回目の文字が灯った瞬間。



 競馬のゲートのように、読めない文字が書かれたスタジアムの壁が一気に上下に開いた。


 開くと二人の異星人が飛び出した。歓声はヒートアップし、人型よりは点に見えるほどの速さで障害物を避けては前へと進んでいく。


 コースは陸上コースと同じように長円で、最小限の移動量で障害物のすぐ目の前を通過する。


 おそらく一センチ以下、もしかしたら産毛が触れる程度の超至近距離で通っているのだろう。


 一つの障害物をかわすと体を捻らせ、同時に斜め方向に体を動かして次の障害物をかわしていく。一人の選手が大きく避けた。


 判断ミスをしたのだろう。相手選手との距離が大きく離される。



 地球ならこれでもう順位は決まってしまうが、ヴィッツは大逆転劇が常に用意されている。


 トップを進んでいた選手が、移動に失敗して障害物の角にぶつかってしまったのだ。ぶつかったことで進行方向が変わって移動距離が延びる。


 歓声にはどよめきが混ざり、二位の選手が追い抜いてトップに躍り出た。


 定期的に設置されている二メートルほどのチェックポイントリングを通過し、動く障害物ゾーンへと入る。


 動く障害物に合わせて自身も動かしてかわしつつ、速度を変えずに通過していった。



 と、今度はトップを独走していた選手が、動く障害物に翻弄されてチェックポイントリングにギリギリ入れずに通り過ぎてしまった。


 チェックポイントリングは通る方角が決まっているから、逆走して通っても通過したことにはならない。急いでリングの周りを通って通りなおすが、その間に二位が一位に返り咲いた。


 確かに前情報の通り、独走しているからとして油断はできない。


 一瞬の気の迷いで順位が凄まじく入れ替わる。


 一位の選手はコース取りが少し甘いのか、二位の選手がうまいのか見る見るうちに二人の距離が縮まっていく。



 ついに二人の選手は並び、二人の間に現れた障害物で左右へと分かれた。


 チェックポイントリングを二人ほぼ同時に潜り、また左右の独自の道へと突入する。


 また一人の選手が障害物の角に当たってしまい、大きく進路が変わった。


 これが決定的となり、五メートル近い距離を置いて長円の五分の四と進んだゴールテープを通過した。


 まるでサッカーの試合で勝利が決まったかの如く大歓声が沸いた。


 それはバスの中でも同じだ。



「おおー! これは凄い手汗握るレースでしタね! 短距離走とかハードル走とハ別の興奮があリマスね!」


 背後の席に座るトムは興奮高らかに感想を述べた。


「そうですね」


 須川は淡泊に返事をする。


「面白くあリません?」


「……」


「ほら、次のレースが始まるミたいでスよ」



 ダイヤモンドビジョンには次のレースが始まるのか、別の顔と名前、再びカウントダウンが始まった。


 周りを見てみると、皆片側の窓によってヴィッツを見ている。


 総理を護衛するSPは職務上見ることはしないが、それでも素人が分かるくらいには隙を見せていた。



 実行するなら今だ。



 須川はゆっくりとポーチに手を入れて、細く先端が鋭いシャーペンを取り出した。


 これなら危険物として見られずX線でも通るし、筆記用具として所持していてもなんら不自然ではない。


 刃物みたいに脅すには不向きだが、不意打ちの怪我を負わせるには十分だ。目に刺せば確実に失明させることが出来る。



 動いてから実行まで三秒だろう。



 急げばSPに防がれるから、自然に車内を動くように進み、気づいた時には手遅れのようにして顔面にシャーペンを刺す。


 須川は、ヴィッツ第二レースが始まると同時に立ち上がった。


 周りはヴィッツに夢中で、須川が動いても特に反応を示さない。


 トムも。



 狙うは異星国家王女のエミリル。



 だがその前に須川から羽熊を奪い、幸せの絶頂にいる女に生き地獄を味合わせなければ気が済まない。


 一生人前に出られない顔にしてやる。


 そしてそのまますぐそばにいるエミリルに怪我を負わせる。



 これで指示書の通り日イの関係は終わりだ。



 須川は終始無言で、自分の空気を可能な限り消して羽熊を奪った女の背後に立ち、力いっぱい背後から顔に向けてペンを振り下ろした。

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