第80話『友達』
いざ対面すると不思議と口が開かなかった。
この星に人種がいることを知ってからずっと話をしたいと思っていて、ようやく念願の、それも王室の女性と話ができる時が来た。
なのに会った瞬間に頭が真っ白になってしまった。
「こんにちは」や「会えてうれしい」と言えばいいのに、想像と本番の違いになにも考えられなくなる。
それは相手も同じらしく、話したいのに話しかけられないのが、数メートルの高低差で交わされる視線で伝わってきた。
同じなのだ。感情の変動は質は。
周りではここの交流の礼儀である互いの言葉による会話が始まっているのに、二人そろって見つめているだけの中、助け船が来た。
「初めましてエミリルさん」
羽熊であった。
表向きだとエミリルは大学生でコーディネーターとして来ていて、王室の肩書きは無視してほしいと言われている。だから羽熊は王女殿下の敬称を付けずに声を掛けた。
「ゴ存知ト思イマスガ言語学者ノ羽熊洋一デス」
エミリルは羽熊の意図を察してか、少しテンションの上がった口調で答えた。
「え、あ……初めまして羽熊様。エミリル・レ・イルリハランです」
「日本語ガ堪能デスネ。相当勉強サレタノデショウ」
「はい。日本……特に日本文化には大変な興味がありまして、是非ともお近づきになりたくて独学で勉強しました」
「ココニイル女性モ、コノ星ノ文化ニ興味ガアリマシテ、マルターニ語ヲ勉強シマシタ。アイサツヲシテ」
そっと背中に手を当てられ、ようやく鍬田は口を開けた。
「コ、コンニチワ。クワタミコトイイマス。同年代ノ方ガ来ルト聞イテ仲良クナリタクテ、勉強シマシタ。オ会イデキテスゴクウレシイデス」
「こんにちはクワタさん。私もあなたとお話がしたかったの。よろしくおねがいしますね」
お互いに少し固めながら互いの言語での会話。
同じだからだろう。それだけでお互いに気持ちがほぐれた気がした。
エミリルは挨拶として手を差し出し、握手と察して手を高く上げた。
初めて触れる異星人の手。地球が描く異星人は多くが四本指だったり三本指だったりするのだが、地球人と同じく五本指で少し大きいくらいだ。
背丈の時点で同じ女性でありながら三十センチ以上大きいのだから、手も連動して大きいのは当然である。
体温は生体レヴィロン機関で浮くため高く、感触はほとんど違いがない。
星が違い、生身で空に飛ぶ信じられない生物であっても『人』には違いないことが分かった。
羽熊が言うように、リーアンとの対話は日本人が外国人に会う感覚と同じなのだ。
気を改めてエミリルと会話を始める。
「知ってはいたけれど、リーアンは地球人より背が高いのね」
肩書きを無視すれば同年代で同性だ。敬語で話すのはバカらしく、お互いにタメ口で話をする。
「こちらの生物学者が言ってたけど、重力に縛られないから身長が伸びたみたいね。大型動物も生体レヴィロン機関で、自重を軽くしているから大型化したみたいだし」
「背が高くて細いけど、体重はどれくらいなの?」
「それは秘密で」
女性だからこそそこは気にする。
「秘密ってことは体重自体は測るんだ」
「太ってると移動するの遅くなるの。だから体重や体型を気にする人は普通にいるわね」
脂肪は太る原因で様々な弊害を生み出すが、生態的には主に体温の保温と、エネルギーの蓄えに使われる。
しかし脂肪そのものは熱を生まない。体温を生み出すのは筋肉で、いくら脂肪が厚くても筋肉が無ければ熱を生まないのだ。
だからエミリルも含め、見えるリーアン全員が痩せて体格がしっかりしている。
「体触ってもいい?」
「ええ、良いわよ」
エミリルは膝を曲げて高さを下げ、鍬田は恐る恐る腹部に触れた。
「触り心地は同じね。むしろちょっと筋肉質かも」
「そういうクワタはちょっと柔らかいわね」
代わりにエミリルも鍬田の腕を触って感触を味わう。
「鍬田さん、そろそろ台車に乗ったら? それじゃエミリルさんが辛そうだよ」
つい目先の興味につられて、まだエミリルと同じ目線に立っていないことを羽熊に言われた。
「あ、ごめんなさい」
エミリルは膝を曲げて出来る限り床すれすれまで降りて来ていて、確かに体勢として辛そうだった。
鍬田は急いで浮遊する台車へと立つと、羽熊の操作で一メートルほど宙に浮いた。
「おお、浮いてる」
これも初めての経験だ。
感覚としては足場がしっかりと組まれた朝礼台に乗っている気分である。
「やっぱり空に立つのは日本人にとって不思議なものなの?」
「もちろん。生まれてからずっと三十センチと浮いたこともないよ」
ただ、感覚としては舞台の上に立っているのと同じだから、宙に浮いている実感があまりない。レヴィロン機関は不動性が高いと聞いていたがここまでとは思っていなかった。
まったく揺れない。
「地面を怖いと思ったことはないの?」
「地球にはグイボラみたいな食人怪獣はいないからね。怖いと言ったら地震くらいかな」
「地震ねぇ。巨木都市だと地震の被害はあるけど、人が死ぬことはないわね」
宙に浮いているのだ。巨木都市は揺れても人は揺れないから避難はしやすい。
「……今は絶滅しているけど、グイボラに襲われないか心配じゃないの?」
かつてこの地にグイボラと呼ぶ食人怪獣が億単位で生息し、リーアンの大地への恐怖を本能に刻み込んだ歴史は数ヶ月前に公表された。
ネット上ではまだ生息しているかもと不安視がされたものの、百年間一度も発見されていないことと一切の映像記録がないことからすぐに気にされなくなった。
なにより転移してから一度も接続地域でそんな被害は起きていない。
日本にとってグイボラは実在した架空の動物に過ぎないのだ。
「今はいないんでしょ? 見たこともなくて絶滅した動物に怯えてどうするの?」
「そっか、日本側はそういう風に考えられるんだ。羨ましいよ」
「やっぱりいないと分かってても近づけない?」
「うん。空にある人工の床なら平気なんだけど、本当の大地だと近づくと動悸が激しくなって汗が勝手に出てくるの。地面に触れるのも駄目だね。だからこの下で日本の人が地面に立って移動してるのは凄いって思えるの」
エミリルは目線を下にして日本人への感想を述べる。
これが天地生活圏の違いなのだろう。
知ってはいても、お互いにとって当たり前であった常識が実は非常識である認識は不思議な気分になる。
当たり前が当たり前ではないギャップ。羽熊達接続地域で働く日本職員は、転移した直後の初接触からそれを感じながら交流をしてきたのだ。
一言で鍬田が思うとすればパラダイムシフトであろう。
概念が大きく変わる。
「私からすれば地面に足を付けないで空を飛ぶのが怖いかな。生まれてから一度も自力で浮いたことなんてないから、足が地に着かないのは怖い以外ないよ」
大好きなアニメやマンガでは能力を使って空を飛ぶことはあっても、あくまで非現実的なフィクションだから受け入れられるだけで、実際に自分が浮くとなれば怖い。
正直、台車に乗っている今も怖かった。
プールのスタート台に立つと地味に高く感じるのと同じだ。周囲と比べて一メートルと高いこの状況は、足場がしっかりしているとしても怖さを感じる。
逆にリーアンは大地から二メートル以下を強く嫌う。二メートルなのは、グイボラが地面から襲ってきた時に反射的に逃げられるギリギリの距離らしく、恐怖自体は二メートル以上でも覚えると言う。
半面、どれだけ高くても恐怖は感じない。
リーアンは地上に立てる日本人が羨ましく、逆に空を自由に飛べるリーアンを日本人は羨ましがる。
面白いくらいに対だ。
「……ねぇ、良かったら抱えて空飛んであげよっか」
「え?」
「大丈夫。落としたりしないから」
エミリルは唐突に想像こそしても頼もうとは思っていなかったことを言い出すと、鍬田の返事を待たずにお姫様抱っこをした。
瞬間、地面が一気に遠くなった。
ジェットコースターの谷から山に駆け上がる時のように、内臓が下に押し付けられる感覚が来る。それが十数秒続いたかと思ったら、今後は内臓が浮く感覚が何倍にもなって落ち着いた。
雲が下を漂っている。
「ひゃっ!」
考えるまでもなく東京スカイツリーよりも高いところにいて、鍬田は悲鳴を上げながら自由になっている両腕でエミリルの首に抱き着いた。
「大丈夫。そんなに強くしなくても落としたりしないよ」
「た、たか……たかか……」
鍬田が空を飛ぶと言えば飛行機のみだ。それ以外は一つの例外もなく地面と間接的に繋がった乗り物で、人に抱えられているとはいえほぼ単身で高度六百メートル以上と上昇したことなどない。
東京スカイツリーも高校の時に一度しか上ったことがないのだ。
さらにそれ以上のとなる高さに、景色を楽しむ余裕などなかった。
「く、クワタ、クワタ? ちょっと腕強いよ。首閉まってる閉まってる」
「で、でもでもでもでも! 落ちたら死んじゃう!」
「落とさないから。クワタくらいの体重余裕だから」
「ほ、ホント?」
「ホントホント。別に筋力だけで支えてるわけじゃないから」
リーアンにとって筋肉は重い物を持つより発熱に使われる割合が多い。その熱を利用して体内にある生体レヴィロン機関を使って浮いたり重い物を持ったりする。
よって女性の身でありながら力持ちなのだ。
鍬田はエミリルを見て、出来る限り首に抱き付く腕の力を緩めた。
もしここでエミリルが腕を下ろせば鍬田は何百メートルと落ちて即死だ。
鍬田は動悸を激しくさせ、頭の中が真っ白になりながらもわずかに残る思考力で肯定的な意見を考える。
今ここで鍬田を落として死なせたら深刻な国際問題になる。しかも王室の一人がそれをやったら、イルリハラン王国としての国威も落とすのだ。
一人の女子大学院生を殺す合理的なことは一つもない。
そう必死に自分に言い聞かせてエミリルを信用する。
「……綺麗……」
鍬田の目に見えるのは、真っ青な空と緑一色の大地。風任せで流れる濃淡様々な白雲。
地球には絶対にない、何百メートルもある巨大な樹木が点々と見える。
さすがにユーストルを取り囲む円形山脈は見えない。
けれど、日本ではまず見ない広大な大自然が眼下に見えていた。
地上を歩く巨大動物も見えて、宙に浮くラッサロン天空基地も見える。
首を少し捻って後ろをみると、境界を挟んで日本があった。
本当ならこの真下には海があって草原も全て太平洋だったのに、あるのは立つことができる陸地だ。
そして今こうして空に浮いてみることができるのは、空を飛ぶ人種であるリーアンに抱えられて。
「ここは、本当に地球じゃないんだね」
分かっていた。半年以上前からここは地球ではなく、日本の大部分が異星に国土ごと転移してきたことは。
ユーストル自体も何か月も前から見て来ていた。
見て来たのに、今、ようやく鍬田は心の奥底で現実を理解したのだ。
「クワタ、泣いてる?」
「え、本当だ」
手で頬に触れると、汗とは違う水が頬を伝っていることに気付く。
「ごめんね。すぐに降ろすから」
「ううん。もう少し見させて、この星を」
本音から言えばすぐにでも降ろしてほしいが、もう少し現実を見ていたかった。
例えばテレビで見る壮大な自然と、現地に実際に行って見る壮大な自然では受け方は異なる。
テレビで感じられるのは電子化された映像と音だけだ。五感の内二つしか体験しないのと、五感全てを使って体験するのとは違う。
鍬田は今までテレビでしか異地を体験していない。知識としては異地のことは色々と把握しても、現地では須田駐屯地までだった。
だからこそ五感全てで異地を体験して、涙と言う原始的な感想を鍬田は出したのだ。
異星への国土転移。分かっていながらもトンデモない事象だ。
そこに背広の内ポケットに入れていたスマートフォンが鳴った。
落とさないよう慎重にスマホを手にし、しっかりと握りしめて画面操作して応答する。
画面には〝羽熊さん〟と表示していた。
『鍬田さん大丈夫!?』
思わず耳から話したくなるほどの大声で羽熊から心配の声が響いて来た。
「博士、大丈夫ですよ。ビックリしましたけど、いま異地を堪能してます」
『そうか。いきなり空に上がったからびっくりしたよ』
「私もですけど大丈夫です。それよりもすごい光景ですよ」
『ユーストルのこと?』
「はい。須田駐屯地から見てもいましたけど、こうして高い所から見るのは初めてで、本当にわかってましたけど異星にいるんだなってやっと実感しました」
『そうか。エミリルさんにエルマがさっさと降りて来いって言ってるって』
「エミリルさん、エルマさんがさっさと降りて来いって」
「あー、怒ってそう」
だろうなと鍬田も同感する。
初対面の空を飛べない人間を強制的に逃げ場のない空に浮かせたのだ。
責任者の立場からすれば気が気でない。万が一落として死なせたとあっては甚大な国際問題になるし、王室で大使の立場なら重大さは理解している。
それも身内がしでかしたらさらに拍車をかけるだろう。
風の流れが横から縦へと変わり、再び内臓が持ち上がる感覚が来た。景色も変わり始めたので高度を下げ始めたのだ。
上る時は数十秒と掛からなかったが、降りる時はスカイツリーのエレベーターよりも遅く数分と時間を掛けた。
そして再び元の台車の上へと降ろされ。
「だっ!」
ゴチっと骨と骨が激しくぶつかる音が聞こえた。
「いきなり空に上げる奴があるか! 日本人は空に立てないんだぞ!」
「ご、ごめんなさーい」
「あ、あのエルマさん、私は大丈夫ですから怒らないでください。それに機械に乗らないであんな高く飛べたのはいい経験でしたから」
「鍬田さん大丈夫?」
怒り心頭のエルマと違い、羽熊は心配そうな顔で鍬田の両腕を触る程度の力でつかんだ。
心配をしてくれていると思うと嬉しく思う。少なくとも口で言っているよりは思ってくれている証だ。
「大丈夫です。ビックリしましたけど、むしろ感動しました! テレビやここに来て転移してきたことはもちろん分かっていましたけど、こう……なんで言うんですかね。グランドキャニオンをテレビで見るのと実際に見るので違うみたいに、壮大な自然に感動するような感じで、ああ、ここは異星なんだなって改めて実感しました!」
「あ、ああ、そうか」
「博士は今みたいに生身で飛んだことはありました?」
「……いや、介助で抱えられたことはあるけど、あんな高くまで飛んでもらったことはないな。パラシュートとかあってもお願いはしないよ」
素人がパラシュートを背負ってていも、落ち着いてヒモを引けるとは限らないし、引いたところでコントロールなんて出来ないから地面に落ちて死ぬだけだ。
プロや自衛隊員ならともかく、パラシュートが出来る政府の人がいることはないだろう。
命は掛かるのだから、生半可な関係では預けるのも預かることも軽々には出来ない。
「いいか、もし次にあんなことをしたら無条件でイルフォルンに返すからな!」
「……はい」
エルマの説教は続き、エミリルは完全に委縮して目じりに涙を浮かべていた。
リーアンからすれば日常でも日本人からすれば命に係わる。エルマはそれを知っているからあれだけ激怒するのだ。
鍬田の感動の引き換えにゲンコツと説教は、少々割に合わない。
「エルマさん、それくらいにしてください。エミリルさんは善意で空に上げてくれたんですから。多分」
「多分ってひどい! 十割善意だよ」
「善意ならせめて返事を待ってからしてほしかったなー。返事する前にあがるんだもんなー。多分、日本人じゃ初めて単身で飛びましたよ」
「俺の知る限りでも、抱えられて何百メートルと飛んだ人は見たことないね。俺でも無理だよ」
「私も見たことないし、大使なってから許可なんてしてません。日本人は生身じゃ飛べないんだ。下手したら十メートルだって死ぬんだぞ」
少なくとも無傷ではすむまい。足から落ちて最良でも骨折だろう。
「ああ、別にエルマさんを信じていないわけではないです。こればかりは命の保身になるので」
「気にしていませんよ。信用の有無ではなく本能なんですから。私たちも安全と博士たちが言っても地面にうつ伏せすることなんて出来ませんし」
天地で生活圏が逆であっても、恐怖するものもまた逆だ。
実感は出来なくても理屈の上では理解しあえる。
「エルマさん、一応問題なかったのですからこれくらいで、あとは女性方々だけで話をさせましょう? 私たちがいては言えないこともあるでしょうし」
「ええ、エミリル、くれぐれも阻喪はするなよ」
「もうしないよ。多分」
「おい、いま多分と言ったな!」
「まあまあまあ」
余計なことを言って火に油を注ぐエミリルに、エルマはすぐに反応するも羽熊がそれを宥める。
羽熊の中ではさっきのようなことは起きないと信頼しているのだ。信頼しすぎな気もするが、それだけ長い間接しし続けたらやはり信用してしまうのだろう。
いや、きっとエルマやまだ会ったことのないルィルならだ。鍬田の場合は、おそらく目の前にいるエミリル。
羽熊はエルマの背後に回って一本脚の太ももを叩き、あとはお二人でという目線を送って離れていった。
なんだろう。見合いをしてあとはお二人でと親に言われた気分だ。
なんであれ、おジャマ虫は消えたからようやく落ち着いて第二ラウンドと行ける。
「クワタ、一つ先にお願いがしたいんだけどいい?」
「なんです?」
「私のこと、敬称や敬語とかなしでタメ口で話してほしいの。せっかくの同年代で同性なのに気安く話せないなんて嫌だから」
「いいのかな」
「どうせ王室って肩書だけだもん。王位継承権がなかったらいようがいまいがどっちでもいいし、このまま生活してもエミル様エミリル様って呼ばれて、呼び捨てなんて身内だけだし。だったら真っ新な状態のクワタくらいには呼び捨てされたいわ」
それを王室が言っていいものなのだろうか。日本にも皇室があって女性皇室の方が多いが、品位をもって活動しているのをテレビで見ている。
文字通り格上の女性たちだ。それと比べるとエミリルは庶民的に見えなくもない。
「分かった。じゃあ二人っきりの時はそうするよ」
「ありがと」
エミリルは笑顔を見せ、これをもって二人は異星と人種の垣根を越えて友達となった。
もちろん敢えて『友達』の単語は出さず、二人はその事実を確認することなく互いの言葉で会話を始めた。
友達になるのにいちいち確認など取らない。友達とは気づけばなっているものだ。
最初の緊張感はどこか風によって消え去り、鍬田とエミリルはそれぞれが聞きたいことを聞き合った。
さすがに文化が違うから生い立ちを聞いてもしかたないから、それぞれの国の特徴やもし来るならこういったところでこういう物を食べるなど、今まで日本がイルリハラン側に伝えてきたことを民間レベルで伝える。
分かりやすく言えば、日本を持ち上げる番組やグルメ番組を口頭で伝えるようなものだ。
それをエミリルは大変興奮した様子で聞き入る。その逆もまた然り。
とはいえ文明水準は近いから羽熊の言う通り外国の文化を聞くような気分になる。
「あー、じゃあ自由恋愛よりは政略結婚が多いんだ」
「さすがに表立ってそんなことは言わないけど、一般人と結婚することはまずないね」
「イルリハランって貴族っていたっけ? するなら貴族と?」
「昔は今ある州の自治を公爵が行っていたんだけど、民主化から州の統治を公爵から知事にして選挙制にしていったわ」
「よく貴族性の廃止に同意したね。既得権益が奪われるのに」
「知事こそ選挙だけど、副知事は固定で元公爵家系が担ってるのよ」
「ああ」
表向きは民主化にしつつ、裏ではその元貴族が握っているわけだ。
どの国にも良い面と悪い面がある。
「まあ決定権は知事が持って副知事は意見しか言えないから、出来て誘導ぐらいだけどね。一応それで治安は守られてるし、何らかの癒着なんてあったら闇討ちにあうから問題はないわ。それにそれを言うなら王室はどうなのってなるし」
皇室を持つ日本でも一部の団体が天皇制の廃止運動をしている。
「ところでエミリルはなんで日本に執着するの? 博士に聞いたけど本当は今ここにエミリルはこれなかったはずでしょ? そりゃ異星国家だから興味はあるけど、近いうちに普通に来れるのに何で無理やりここに?」
「え、えーと」
「……まさか博士目当てとか?」
「それはない」
この手の物語では確実と言って良いレベルで異星人種同士で恋が実る。
会う前から狙っていた博士を狙うならそれは恋敵だ。友達になってもそこは譲れないが、エミリルは即答で否定した。
「外交の立役者としては興味あるけど、男としては全然興味ないわ。なにより天と地で生活が違うのにどうやって暮らせばいいのよ」
やはりネックはそこだ。片方は空に住み、片方は地に住むから絶対的なすれ違いが起きる。
こうして友達として接するのは楽しくとも、では住もうとなると待ってと言いたい。
「あ、ひょっとしてクワタってハグマ博士が好みなの?」
エミリルは察したようにどや顔で言われ、途端に顔と背中が暑くなった。
誰かに指摘されると自覚していても恥ずかしくなる。
「うん」
「そっかそっか。いいなぁ、私も好きな人を作りたいよ」
「恋愛結婚できるといいね」
「生涯楽して食べていけるのを引き換えだから、おじさん以外ならそこは妥協点かな」
「女子大生がそれを言うか。それでここに来た目的って?」
「……クワタってニホンの創作物に詳しい?」
「創作物?」
そう聞かれて視線を右上に向ける。
「映画とかドラマのこと?」
「ううん、マンガやアニメの方」
「好きと言ったら好きだけど、詳しいかは比較がないから分からないよ?」
「ネットで直撮りしたのしか見たことないけど、ニホンのそういうのが凄い興味あるの。こっちの創作物って現実的過ぎて面白みがないから」
聞くとイルリハランだけでなく、異地社会の創作物には非現実的な作品は少ないそうだ。
一言で言えばファンタジー系はほぼない。
SFは現代科学の延長線上なので近未来的な作品はあっても、魔法や超能力と言った非科学的な作品はなく、現在日本で主流である異世界系もない。
日本側から見れば異地全体がファンタジーだから違和感があるが、そうした文化が世界中で常識なのだそうだ。
なら創作物だからこそ現実よりは非現実的な作品が多い日本のアニメや漫画に興味がわかないこともない。日本そのものが異地社会からすれば非現実なのだから。
ただ、エミリルが日本のアニメやマンガを所望しているからと言って鍬田に何が出来る。
日本と異地のインターネットはまだ繋がっていない。物理的に本やディスクを渡すとしても、個人では数が知れている。
さすがに一般販売している文化を渡すことが犯罪になるとは思えないが、鍬田も紆余曲折しているがここに正当にいる身分だ。身勝手なことをして問題を起こすのは避けたい。
「もちろん今日あったばかりのクワタに無理を言うつもりはないし、便宜を図ってほしいとも思ってないわ。でも見たいの」
日本のアニメやマンガが地球の各国で人気なのは知っている。クオリティの高さもそうだし奇抜なアイデアなのも理由の一つだ。
アニメを見て日本語を覚えた人も少なからずいるから、輸出産業として前例を作るいい機会と言える。
しかも最初が女性王族であれば国民の受け入れはしやすい。
「……エミリル、ちょっと待ってくれる? 聞いてみるから」
「本当?」
「手がないことはないから」
もし駐日イルリハラン大使館に日本のネット環境が整っていればなんとかなるし、なくても鍬田の私物でマンガなら数十作品ならなんとかなる。
鍬田は台車の高さを下げて床に立ち降り、離れている羽熊の元へと走っていった。
別にほぼ一般人である鍬田が動く義理はないのだが、この貴重な場に来れたことと異地の空を見せてもらった動きはしたかった。
確率としては少し低いので心配したものの、羽熊とエルマに確認を取ってみるとあっさりと解決した。
駐日イルリハラン大使には日本用ネット環境が整っており、日本のパソコンも置いてあるそうだ。Wi-Fiも使えると言う。
なら日本のサブカルチャーであるアニメやマンガを大量に楽しむことができる。
問題は料金の支払いであるが、幸い鍬田の私物がクリアしていた。
渡すのは少し痛いが、女の直感で次の機会ではなくいましたほうが良いと訴えていて、鍬田はその直感を信じることにした。
なんなら次の機会に新しいのを用意して返してもらえばいいだけだ。
鍬田は大急ぎで空港を降り、舗装されたユーストルの道路を走って須田駐屯地の自室へと向かい。目的の物を手にしては再び空港へと向かった。充電ケーブルも忘れない。
まさか走るとは思っていなかったものの、パンプスとヒールの低い靴を履いていたのが幸いでなんとか往復する間は走り続けることができた。
けれど高校も大学も運動部でもないし、日ごろ運動していたわけではないから明日は筋肉痛だろう。
そう頭の片隅で考えつつ、息を切らしながら十分ほどでエミリルのところへと戻って来た。
「クワタ、大丈夫?」
「だい、じょうぶ。ちょっと走って来たから。はぁ、はぁ」
「どこに行ってたの?」
「これを取りに行ってたの」
肩を激しく動かしながら口で息をし続け、自室から持ってきた物をエミリルに差し出す。
12.9インチある大型高性能タブレットだ。
「タブレット?」
「これにマンガと動画配信サイトアプリが入ってて、マンガと動画が見放題なの。はぁ、はぁ……大使館にも日本のネットは届くから、多分好きなの見れるよ。文字も声も日本語だけど……はぁ、はぁ」
「好きに見れるの!?」
「有料だけど半年分払ってるから、好きなの見れるよ。エミリル日本語読める?」
「すぐ読めるようにするわ! あ、でもこれクワタのでしょ? 借りても大丈夫なの?」
貰うではなく借りると言ってくれる。
「ほとんど暇つぶしで遊ぶくらいだから大丈夫」
「ありがとう……わー、イルフォルン観光前くらいに本がもらえたらって思ったのに、配信でどれでも見れるんだ」
「網羅してるわけじゃないけど、そこは平気よね」
なにせ何万作もあるのだ。一年間毎日見続けても終わることはない。
「もちろん。じゃあなにかお返ししないと」
「いいよいいよ。今度代わりのタブレットを持って来るから交換してもらえたら」
「だめよ。ずっと念願だった物を渡してもらってそのまま帰すわけにはいかないわ。そうね……お金は嫌だろうし」
「イルリハランのお金をもらっても使い道ないよ」
今はだが。
「んー、じゃあ……」
パンとエミリルは自分の両手を叩いた。
「今度のイルリハラン観光で私が街案内してあげる」
「あー……ありがとう。でも私、抽選に外れたからイルフォルンには行けないよ」
「なんで?」
「なんでって言われても私がここにいるのはマルターニ語を学ぶためだから、優先的に政府枠で行くことなんて出来ないよ」
「なら私の自費で連れて行ってあげる」
「はい?」
「確かイルリハラン政府が招待しているのは百人丁度だから、私が自費でクワタの旅費を出すわ。それなら文句出ないでしょ」
「いやいやいやいや、出るでしょそれ」
誰が考えても大問題であると分かる。修学旅行や個人の旅行ならまだしも、政府主催の旅行だ。厳密に管理しなければならないのに、恣意的に招待して許されるわけがない。
のに、エミリルは鍬田から離れて、数十メートルと離れているエルマの方へと向かい、タブレットを見せながら話をする。
そして、思いっきり頭頂部を拳骨された。
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