第69話『空中鬼ごっこ』
ニホンの非浮遊機がムルートの非干渉空域に突入したことは、ムルート観察事業をするムルデアラー社のライブ配信により、ほぼリアルタイムで全世界が知ることとなった。
最短でも五十キロと離れた場所より望遠カメラで撮影することから、決して鮮明な映像を届けることは出来ない。進路上にあらかじめカメラ等の設置は非干渉として出来るが、悪意を持てば干渉する装置が設置出来るとして禁止されている。
よってライブ配信は常に画質の荒いムルートが映し出される。
それでも熱烈な信者は全世界におり、約五千万人は常に五羽すべてまたは意中のムルートの映像を見ていた。
ニホンに近づきつつあるムルートを視聴する人は常時で九百万人。ニホンへ進路変更してからは一気に八千万まで跳ね上がり、その八千万人が同時にニホンの違法行為を目の当たりにした。
さらにテレビやライブ配信以外のネット配信で広まり、昼夜に関係なく数十億人が瞬く間に知る事態になった。
当然神聖なる動物に、しかもまだ得体の知れない異星の国の乗り物が無断で近づこうとしていることに、信者の怒りは一気に急上昇する。
ネットはその感情が顕著に表れ、肯定的な意見はない。
全てがニホンの排除やニホンを擁護するイルリハランなどの批判だ。実力行使で滅ぼせと言う書き込みも多い。
そしてその情報は早朝の時間であるアルタランでも伝わり、各国大使は全員たたき起こされて緊急の総会が開かされることになった。
それはニホンの非浮遊機が侵入してから二十分後で、緊急の総会としては史上最速を記録した。ちなみに二番目に最速は今回のムルートの進路変更から四時間での開会である。
問われるのはフィリア社会で一切の条約に加入していないニホンが、ムルートから五十キロ圏内に侵入することについてだ。
ある意味この総会は裁判に近く、イルリハラン大使であるパラミアに総会議長が問いかける。
「イルリハラン王国はニホンに対してムルートに関する情報は伝えてはいなかったのか?」
「私はそのことに関して、ニホンに伝えられたのか存じておりません」
パラミア大使はこのことについては一切知らされてはいないが、本国がこんなニホンの暴挙を見逃すはずがないし、ニホンも危険を冒すはずがない。おそらく何かしらの意図を持ってニホンに侵入させたと見る方が適切だろう。
「ムルートがニホンに進路変更したことは伝えたのではないのか?」
「伝えたかどうかは聞き及んでおりません」
外務省からは政府の判断待ちとして詳しい情報は聞いていない。
「即刻イルリハラン政府はニホンに対して、非浮遊機の帰還を命じるよう要請する」
とある国の大使がそう要請する。
「ニホンの行動は明らかに国際法違反だ。そしてニホンへの連絡手段はイルリハランしか持っていないのだから、イルリハランが要請するのは当然の義務だ」
ニホンは条約に加盟していないが、イルリハランは加盟している。そしてニホンの非浮遊機はイルリハランを移動している。つまり、ニホンの非浮遊機はニホンの国内に限りではムルートに近づこうと法律上構わないが、イルリハランの国内ではイルリハランの法に従う義務が発生するのだ。
「確かにムルートに関する情報を伝えなかったことは我が国の責任の一つですが、何も知らずに侵入したニホンを責めることは出来ません」
例えば罪として最もしてはならない殺人も、人を殺してはならないと言う当たり前の常識を幼い頃から一切教わらなかったら、実際に人を殺してもそれが証明された場合は無罪になることがある。
一般的な教育を受けた人ならば当たり前の罪を知らなかったで逃れることは出来ないが、ニホンのようにムルートに関する歴史を一切知らないと、例え他国の領土で違反しようと罪にすることは出来ない。
ニホンから見たらムルートはただの大型鳥類だ。フィリア社会とはムルートに対する価値観が違う。
この場合はニホンにしっかりと伝えなかったイルリハラン側に責任が来るのだ。
そしてこれが国際問題化するかどうかは、ムルートの生死で決まる。
そもそも条約自体に絶滅危惧種の『保護』は当該国が責任を持ってするとしており、ムルートが生きている限りは他国が絡むことはない。
もし死なせてしまえば重大な国際問題に発展するも、保護が成し遂げられたら国内の問題で処理される。
パラミアは詳細を知らされていないが、長年大使として政治に関わっているために、知らない体でニホンがムルートに何か干渉しようとしていると察した。
ならば可能な限り時間を稼いだほうが良いと自己判断する。
「ニホンから見れば、どの動物が絶滅危惧種であるのか判断が出来ません。この星の生態系についても収集中かこれからでしょう。宗教に関しても同様かも知れません。我々の常識を伝えることなくニホンが知ることなど不可能です」
「ならばなぜムルートの存在をすぐに伝えなかった」
「このような状況になるとは想定していなかったからかと」
いくらなんでもアルタランに常駐するパラミアが政府の意向を完全に把握しているわけではない。状況からそうしたものとしか答えられなかった。
「とにかくイルリハラン政府はニホン政府に対して即時帰還命令を出すように要請をするべきだ。万が一ムルートを死なせてもしまえば大変なことになる」
「連絡手段はありません」
パラミアはさらっと答える。これは前もって言い渡されている情報だ。
「ニホン領内であれば電波が届けば可能ですが、ニホンは通信衛星を持っていないためユーストル外を移動中の乗り物への連絡は出来ないのです。すでに非浮遊機はムルートから五十キロ圏内に入っている以上、我が国の軍経由でも不可能です」
実際はイルリハランとニホンの間で通信規格の調整は整いつつあると聞いているが、公表していないし実用化には至っていないから出来ないで通す。
アルタラン大使として出来ることは、現場に余計なことを指せないようにするだけだ。
総会はニホンの挙動に惑わされる中、ニホンを少なからず知る安保理の理事国らの大使たちは平静な表情で自席にいた。
*
『正体不明飛行物体アルファは当機に接近中』
機長がレーダーで捕捉する正体不明飛行物体を注視しながら報告する。
「……機長、可能なら目視できる距離まで近づけませんか? もし飛行艦ではなくて巨大動物なら初めて見るので、資料として映像を撮りたいんですが」
羽熊はここでムルートに自然に近づくための口実を機長に伝えた。
領空侵犯でスクランブル発進したなら目視が出来る距離まで対象まで近づくが、今回は輸送が任務だ。正体不明の飛行物体が進行方向にいるならば、安全から十分な距離を取る。
一体どれくらいの距離で誘導可能か検証できていないことから、規則に反した行動を取るしかない。そこで羽熊が登場と言うわけだ。
言語学者から異地学者に変わりつつあり、尚且つ内閣官房参与の地位に就く羽熊が申請すれば、全てとは言わないが多少なり融通が利く。
『分かりました。一キロまで近づきます』
あくまでムルートの扱いを知らず、巨大動物に対する物として演技をする。
自然に口から出たのではなく前もって決めておいたセリフなので、棒読みにならないか内心ヒヤヒヤだ。
おそらく大丈夫だろうと自己評価して、マリュスを撮るためと言う理由で持参したデジタルカメラをカバンから取り出す。
ムルートに無知のまま近づく構図は出来た。あとは本能によって三トンとある結晶フォロンに惹かれるか否かだ。
出来ても出来なくてもオスプレイはすれ違うしかない。Uターンしてしまえば意図して近づいたことになるし、ムルートを目的としていないから二度目の撮影も不自然だ。
失敗した場合はもうムルートに任せるほかなく、日本が出来ることはもうない。
あらゆる意味でぶっつけ本番だ。
羽熊はカメラを持ちながら窓から外を眺める。
どこまでも続く緑の大地。地球のような都会や農地は一切ない自然に身を委ねた世界が広がっている。
リーアンはその悲惨な過去から地下資源を除いて地上と決別したがために、地球ではほぼ見ない原始の世界が維持された。
今後日本人がユーストルを出て開拓をすれば、こうした原始の大地も様変わりするのだろうか。
地球みたいに伐採しすぎて自然環境を壊さなければいいが。
そんなことを考えながら見ていると、前方の空に黒い横一線が見えた。
「あれが飛行物体か?」
両端が薄く中央が厚い何か。間違いなく飛行中のムルートだろう。
生体レヴィロン機関で浮遊するため、体温さえ維持できれば羽ばたくことなく飛ぶことが出来る。それゆえに羽ばたくようなしぐさは見られなかった。
「……鳥、ですね」
カメラの最大ズームで数枚撮り、双眼鏡でその姿が鳥であることを羽熊は確認する。
『大型動物の鳥類と確認。観測のため近づきますが、向こうから近づく場合は回避行動を取ります』
「近寄り過ぎる必要はないです。写真と映像が撮れればいいので、鳥とオスプレイの両方の安全を最優先でお願いします」
『分かりました』
ムルートは次第に大きくなる。見た目で言えば小鳥程度から、カラス大、白鳥大となり、飛行機を越えてなお大きくなった。
言ってしまえば飛行機の二倍だ。地球上にそれだけ巨大な飛行機はないから、その大きさに呆気にとられる。
『デカい……』
機長からもつい呟いてしまうほどにムルートは巨大なのだ。
例えムルートから一キロと離れていても圧迫感が伝わってくる。
「こんな巨大な生物が生きてるなんて……」
羽熊は二の次である撮影を懸命に行い、同行する隊員もまたスマホや他のカメラで撮影をする。オスプレイ自身も撮影をしているだろう。
『トラブルだ。後部ハッチに異常発生。搭乗者は全員ベルトを締めろ。ハッチが開く』
もちろん予定したトラブルだ。結晶フォロンから発する波動は遮蔽物で遮断でき、後部ハッチを閉めている限りは野生動物は感知できない。
よって計画的なトラブルとして、ムルートの側で後部ハッチを開けて感知してもらうのだ。
貨物室にいる羽熊を含め数人の隊員はしっかりとベルトをしていることを確認すると、後部ハッチが開いて冷たい空気が機内に入り込んできた。
もしこれが普通の飛行機ならば、気圧の変化で吸い出されるが気圧が同じなので風が入り込んでくるだけで終わる。
オスプレイは一キロの距離を挟んでムルートとすれ違った。
ダメか。
距離があり過ぎたのかもしれない。万が一突然の方向転換でも安全に対処できるように一キロと設定したが、効き目が無ければ意味がない。
かと言って二度目はないのだ。失敗したからと言って戻ってやり直しは出来ない。
あとはムルートがフォロン有効圏外を感じて避けることを祈るしかなかった。
これではただ国際条約を無視したと言う世界から遺憾の意を受け取るだけで終わる。
日本としても非常にまずいが、何もできない。
頼む、気づいてくれ。
羽熊は強く握り拳を作って、小さくなっていくムルートに念を送った。
*
現代のリーアンにとって、夜の森の下に徹夜でいることは拷問でしかない。
精鋭の特殊部隊は入隊条件に夜間の森を髪を隠した上で装置なしで何夜も過ごすことがあるらしいが、夜間の森の下は完全な暗闇だ。一切の光を持たずに森の下にいるのは想像を絶する辛さだろう。
ムルートを人為的に誘導したのではないか転換点を調べている観測隊は、それよりは装備によって軽減しているが精神を削りながら合流した部隊と共に調べていた。
夜が明け、光が森の下に届いてきても隊員の顔色は優れない。
いないと分かっていても危険な地面から数メートルの位置で移動しているのだ。四十人と増えた隊を一時的に率いる隊長も、自然と出てくる冷や汗を我慢しながら枝や幹に異物が無いかを見る。
『基地より入電。ニホンの輸送機がムルートの非干渉空域に侵入した模様』
上空の浮遊高機動艇から全隊に耳を疑う情報が入ってきた。
「ニホンの非浮遊機が五十キロ圏内に入ったのか!? 送れ!」
『そのようです』
観測隊に与えられた任務はムルートの進路変更が人為か自然の見極めで、ムルートそのものの対処には何一つ言い渡されてはいなかった。
隊員たちは一斉に、ムルートをニホンが誘導するつもりかと内心疑う。
いま探索をしているのは全員ラッサロン浮遊基地所属ではないため、ラッサロンと比べてニホンへの信頼度はかなり低い。
よって任せていいのか半信半疑が観測班全員に駆け巡った。
『隊長、これは上は知っていることですかね』
「分からん。だが無許可でやればニホンはせっかくの国交を台無しにすることになる。なにかしらの取引きをもってやっているのかもしれん」
隊長は混乱しつつも冷静に現実的なことを話す。
「我々は与えられた任務をこなすだけだ。ニホンがどう動こうと、ムルートがまた進路変更するまで異物が無いか探し続けろ」
隊長の命令で乱れた空気がすぐに落ち着きを取り戻しだす。
ニホンの輸送機が非干渉空域に突入してから四十分と過ぎた頃、それは突然来た。
『……ジ、異物発見!』
聞きたくて聞きたくない報告が飛び、隊長は叫んだ。
「場所はどこだ! 送れ!」
『これは……レーゲン――――』
ンを言った瞬間通信は途切れ、タイムラグなしで爆音が響き渡り薄暗闇にオレンジ色の閃光が煌めいた。
数コンマ遅れて衝撃が襲い、木々に止まっていた超小型の鳥や小動物が空へと逃げる。
「ば、爆弾だと!? 総員、周囲を警戒しろ!」
森の切れ目からは黒煙が昇っているのが見え、木々に燃え移ったのか炎が出ていた。
すぐに全員の点呼を取ると一人が返事がないことを確認する。
隊長の脳裏に異物を発見した隊員の捜索をしなければを考えるが、可燃性の燃料もあったのか炎の勢いが激しい。これでは二次被害を産んでしまう。
敵襲は数分経とうとない。
『隊長、指示を』
「……探索中止。高機動艇に戻れ」
隊長はこれ以上の探索は危険と判断して戻る指示を出した。
森の上に出ると、隊長のいる位置から三百メートルと離れたところで黒煙が昇り、炎がどの木よりも高く上がっていた。
早く消火活動をしなければ広大な森全体が焼けてしまう。
「至急消火船の手配だ。消火後、直ちに仲間の捜索をする」
『了解』
レーゲン、異物を発見した兵士が最期に言った言葉が強く残り続けた。
*
離れ行くムルートの首がオスプレイへと向いた。
クゥアー。
ひと鳴きすると、首だけでなく体全体で大きく方向をユーストルからオスプレイへと変える。
誘導に成功したのだ。
声には出さず、羽熊は座った状態で喜びをあらわにする。
『アルファが進路を変えた。我々の方に向かってくる』
「陸棲の巨大動物と同じですね。運搬してる結晶フォロンに惹かれているのかもしれません」
方向転換はひとまずさせられた。あとはどのタイミングでハッチを閉じれば再びユーストルに向かわないかだ。
純粋にユーストルに惹かれているのなら、どれだけ離れても再びユーストルに向かってしまう。もし一度の進路変更だけで直進をしているなら、もう大丈夫だがもうしばらくは引っ張っていくのが最良だ。
『ハッチが反応しない。直るまでは鬼ごっこだ』
機長も安直な反応はしない。しばらくは餌をちらつかせて引っ張っていくつもりだ。
マリュスまで八百キロ程度。その前に誘導を終わらせて五十キロの距離を開ける。
これで戻れば今度こそ手の施しようはなく、あとはムルートの危機管理次第だ。
しかし、事態は予想外に傾いた。
『っ! 加速する!』
ムルートがオスプレイよりも速い速度で近づいて来たのだ。このままでは追いつかれてしまうため、オスプレイは巡航速度からさらに加速をする。
『な、速いぞ、あの鳥』
一体何キロの速度を出すのか羽熊は知らないが、機長の言葉からして楽観できないのはすぐにわかった。
地球の鳥も状況によるが時速百キロを超す種は多くある。ハヤブサに至っては重力を利用して新幹線より速くなるほどだ。
だが天空島やムルートを空に浮かせるレヴィロン機関は、最高七百キロまで加速することが出来る。人工でも生体でもレヴィロン機関であれば七百までは出せるらしく、ムルートは少なくともオスプレイに追いつけるだけの速度を出せるのだ。
レヴィロン機関を持たないオスプレイがムルートに捕まれば落ちる。
『全員しっかりつかまれ、アクロバットをするかもしれん』
機長の声から余裕の声が消える。
もしかしたらオスプレイの最高速度に追いつこうとしているのかもしれない。
「……機……」
羽熊は機長と呼びかけて躊躇した。
後部ハッチは壊れていないから、閉じてムルートの興味を失わせることは可能だ。だがまだ反応してから二分と経っていなかった。
戻ることをさせないためには可能な限り距離を開けてから閉じたほうが良いし、都合よく閉まっては世間への説明も出来ない。
もう少しは餌をぶら下げたまま逃げないとならない。
「ぐおっ!」
機体が左下に傾いた。
クゥアー。
飛行機の機首並に巨大な鳥の顔が、開いたハッチ全体に広がり横をかすめていく。
オスプレイは左斜めに進路を変え、直進してくるムルートを寸前でかわしたのだ。
『この巨大鳥、この機体より速いぞ』
機長が絶望的なことを言う。
野生の世界でも狩りは速さが重要だ。速度で負ければ追いつけず、拮抗ならスタミナ次第だが、最初から負けていたら追いつかれてしまう。
また機体が大きく角度を変えた。
左下から水平となって右旋回をする。目に見えないが真上から圧迫感が来て、向かいの窓が暗くなった。
確実にムルートはオスプレイを狙っている。
空の王者ゆえに異形として敵と見たか、それとも結晶フォロンを狙ってかは分からないが、足の爪が当たるだけで機体的にも政治的にも致命的だ。
機長もそれは承知しているから、輸送機の機長ながら戦闘機乗りのような操縦を続ける。
積載された結晶フォロンはしっかりと固定されているため崩れる心配はない。
今度は急上昇をする。
「ひっ……」
ベルトをしていなければ地面に真っ逆さまだ。
間違いなく世界最恐のジェットコースターより怖いだろう。
スピードで負けているならテクニックで勝つしかない。威嚇も殺傷も一切してはならないならそれしかないのだ。
『こいつ、狩りでもしてるつもりか! いたぶって弱るところを待ってるみたいだ』
野生の狩りでも相手が弱ってから止めを刺す動物はいる。機長はムルートの動きからそういうものと感じたのかもしれない。
『このままじゃ機体が持たない』
オスプレイは翼が可変式だ。垂直と水平に可変する機構を持ち、固定と違って耐久性が高くない。しかも戦闘機ではなく輸送機で、こうしたアクロバットを前提の設計は軍用機でもしていないだろう。
ここら辺が潮時だ。
「機長! 後部ハッチ直りませんか!?」
羽熊は合図を送る。
『……もう一度試す』
後部ハッチが閉まりだした。
『よし、今の動きで不具合が直った!』
おそらくこの機内の音声は公開されるため設定だけはどんな状況だろうと徹底する。
が、あと少しのところで止まった。
『今度は閉まらないか……』
本物のトラブルか。
ここまで来て余計なトラブルの設定はしていない。
正真正銘のトラブルが、アクロバット飛行によって起きてしまった。
しかし……。
「巨大鳥は迫って来てますか!?」
『……いや、今のような威勢はない。方角は同じでも追いかけては来てないな』
ハッチが全開からわずかになったことで、感じるフォロンの量が減って惹かれなくなったか。
とにかく九死は脱したようだ。
『アルファとの距離五百メートル……五百五十メートル。方向転換はないな。追いかけても来ない』
「追いかけてこないなら大丈夫でしょう。でも出来る限り距離は離したほうが良いかと」
『けが人はいるか?』
貨物室にいる隊員の一人が「けが人はなし」と報告する。
『このままアルファを引き離しながらマリュスに向かう』
窓を見ると追うことを止めたムルートが少しずつ遠ざかっていく。
ひょっとしたらハッチが閉まり切らなかったのは僥倖かもしれない。
もし全部閉まって結晶フォロンの気配が消えてしまったら、元の方角に戻ってしまったかもしれない。完全に閉まらずわずかに気配が感じるから、同じ方向に進んでいるとも考えられる。
確証を得ることは出来ないが、事実ムルートはユーストルから逆の方向に進んでいく。
ひとまずの安心として、羽熊は深く溜息を吐いた。
「死ぬかと思った」
政府からこのオスプレイに乗るように言われた時から不安はあったが、死が目前に来たと思うと膝が震ええだす。
こんな恐怖はレヴィアンが落下してきた時以来だ。
けれど終わり良ければ全て良しだ。
ムルートに襲われはしても、殺傷を避けて進路変更も成功させた。
このままムルートをマリュスに連れて行くことは出来ないが、着く頃には五十キロ以上離れるだろう。
羽熊は思い出したかのように、力いっぱい握りしめ続けていたカメラを窓に向け、離れていくムルートを撮影した。
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