しずめ
久次と静真が全身に緊張をみなぎらせる。
橙子が振り返ると、生臭い、生き物が腐った匂いが風に乗って来た。
べちゃ。ぐちょ。
響くのは、もう散々聞いた水で緩みきった肉が歩く音だ。
ゆっくりと、ゆっくりとソレは石段を登って、姿を現す。
人間にしては妙に大きいその体躯を歩くたびに、ゆら、ゆら、と揺らす。
まるでたった今海から上がってきたように、揺れる体から、海水がぼたぼたと落ちる。
『カ……よ……ヵ……ヨ……』
ごぽごぽと水が混じっているような声音で呟いている。
ドザエ様だった。
その姿は、明らかに人のものではなく、まがまがしい圧を感じた橙子は息を呑む。
凝視している間に、ドザエが石段の最後の一つを踏んだとたん、柔らかい果物がつぶれるような生々しく水の音を響かせて足がつぶれた。
ぐちゅり。
己の自重に耐えられなかったように境内に倒れ込んだドザエは、その体を足と同じように崩壊していく。そこから黒々とした海水があふれ出した。
ぶわっと、腐敗した肉と磯の匂いが混ざった悪臭が広がる。
至る所に掲げられた篝火の下で、その海水は生き物のようにうごめいて広がって行く。
いや、違う。と橙子は気づいた。
ドザエからあふれた海水はまるで生き物のように一点を、橙子達の居る方向を目指していた。進行方向上に居た島民に海水が触れたとたん、島民を絡め取りそのどす黒い水の中へと飲み込んだ。
島民は恐怖に叫び声を上げて、まるで水中でおぼれるようにがぼがぼと息を漏らしてもがく。だが黒い海水がすべてを飲み込み見えなくなった。
まるで、本物の海で溺れたような光景に橙子はもはや理解が追いつかない。
常識から逸したその光景に立ち尽くすしかなかったが、その手を強く引かれた。
「橙子さん走れ!」
久次の声とぐっと握られた手のぬくもりに我に返った橙子はひゅ、とようやく息を吸えた。
「なにあれなにあれなにあれ!? 水が動くってどこのCG!? リアル頑張りすぎじゃない!? ドザエ様無形のスライムみたいになってるけど人間からジョブチェンジするの早すぎじゃない!?」
「いや元々数百年前に人間やめてるからな!」
「そういえばそうよね!? でも何で水が真っ黒いのおかしいわ! あれ海水よね!?」
「集め続けた穢れが水に見えるだけだ。触れればただではすまんぞ」
そう答えたのは橙子の傍らを走る静真だ。篝火のせいかすこし顔色が悪いように見える。
そもそも余裕がないようだった。
「静真さん大丈夫ですか?」
橙子が心配になっていると静真はぐっと眉間にしわを寄せる。
生臭い匂いが強くなり振り返ると、迫っていた海水がまるで蛇のように鎌首をもたげて襲いかかってきていた。
イソギンチャクのように海水をうねらせるそれはおぞましく、橙子は生理的嫌悪に背筋が震えた。
ひっと息を呑んでいる橙子に水の触手が伸びてくる。
その寸前、静真は拾った角材で振り払った。
海水の触手は海水をまき散らしながら霧散するが、次から次へと襲いかかってくる。
それでもある程度退けた静真だが、眉をしかめる。
「ちっ、ただの気休めだな。刀を取りに行きたいが……」
「取りに行く前に飲み込まれるな!」
「そもそもあれ生理的に無理だし追い掛けてくるわよ!?」
橙子が叫んだとおり、すでに黒い海は境内いっぱいに広がっている。
島民達は次々黒い水に飲み込まれ逃げ惑っていた。
さらに橙子達へ執拗に海の手を伸ばしてきている。
背後を振り返る久次の表情は厳しい。
「どっちみちアレは手遅れだったってことだろう。あんなのをただの人間により移らせるなんて無謀過ぎる。くっそ、静真っこれを封じられる結界は作れるか!?」
「準備が足らん。無理だな……ぐ、」
そう答えた静真は角材を構え直すが、少し足をもつれさせた。
運動神経に関しては絶大な信頼がある静真の、目を疑う事態に橙子は息を呑んだ。
驚いていたのは久次も一緒だった。
静真の顔色は暗がりでもなおわかるほど悪かった。
「静真っ!? 毒気に充てられたか」
「……動けはする。ただ、あの勢いだと押しとどめるだけで手一杯だな。久次、札は」
「あるけど余裕ねえし、効くようなもんも少ない。この後儀式はどう展開するとか聞いてねえか。せめてもう一巡りさせて時間を稼ぐか。そしたら師匠に手を借りれるけど、その前に俺たちも飲まれてただじゃすまねえな」
厳しい表情で久次がいうのに、橙子ははっと思い出した。
「ドザエ様はかよさんを探してるって言ってたわよね!? 会わせてあげたら多少はおさまらないかしら! あの身代わりみたいなやつ!」
「戒名は知ってるし、出来ないことはねえけど。依り代に宿らせるには時間がねえ」
「花があるわよ! 浜木綿の花! かよさんの象徴でしょう!? 短時間だけでも錯覚させられないかしら!」
橙子の言葉に久次は目を丸くすると、真剣に考え始める。
「いちかぱちかやってみるしかねえな。使ってない形代もある。後は」
「花か。わかった」
静真が言うなり、片翼で飛び立つ。
粘度の高い海水で覆われた境内を飛び越えて、さっきまで居た祭壇に文字通り舞い戻ると、無事な浜木綿の花をとって戻ってくる。
久次は見事な筆致で文字をかきつけた形代を細くたたむと、静真が持ってきた浜木綿の茎に結びつける。
すると、境内にたゆたっていた黒い海水はずるりずるりと収束していく。
捕まえていた島民達をはき出した海水は、人形と言うには名状しがたくいびつな姿をとった。
『カ……ョ……!』
ゴボゴボと水混じりの声を発したとたん、ずるりずるりと橙子達へと迫ってきた。
形をとりきらなかった海水も、同じようにドザエに従いイソギンチャクのような触手を伸ばしてくる。
「このまま海まで誘導するぞ! 走れるか静真!」
「……っ馬鹿にするな」
顔色は悪いながらも静真もまた走り始める。
その間にも橙子と久次には黒々とした海が迫ってきていた。
こちらに意識が向いたせいか、取り込まれていた島民が、次々に海水から落ちてくる。
しかしその分だけドザエの速度も上がっていた。
橙子達は海水に捕まる前に、神社の裏手に道を見つけて飛び込む。
「うわあなんかドザエ様すごく元気になってるよ久次くん! なんかめちゃくちゃな勢いで追い掛けてくる!」
「くっそ、逃げ場もねえ。このまま崖まで走る!」
橙子達は草木の生い茂る細い道をひたすら走った。
すぐに開けた場所に行き着いた。
そこは柵などはなく、のぞき込めば遙か下に岩場の見える海面がある。
星も落ち着いている夜明け前の時刻では、海は吸い込まれそうな黒々としている。
それにここは、何度も何度もドザエ様の依り代とされた旅行者が突き落とされた場所でもあるのだ。
改めて理解した橙子は肝が冷えたが、右を見ても左を見ても逃げ場はない。
唯一の道からは、ドザエ様にふさがれている。
「これ飛び降りて生きていられるかしら」
「俺が抱えれば、問題ない。落ちる衝撃を和らげるくらいは今でも出来る」
「さすが飛べる人の提案は違う!」
少し焦った橙子は静真の言葉にほっとしたが、浜木綿を持った久次が止まった。
「じゃあ俺がここで食い止める。先行っててくれ! この依り代を確実に本体に届けなきゃなんねえからな!」
快活に言い切った久次に反射的にうなずきかけた橙子だったが、はっと気づいた。
そう言って来た道を戻ろうとする久次の肩を橙子と静真が捕まえた。
「久次くん、一緒に行くよ!」
「い、いや2人で抱えたら生存率が……」
「2人抱えて飛び降りるなど造作もない」
「いやでも、ドザエに依り代わたせば変わるかもしれねえし!」
焦る久次の背後からびちゃ、ぐちゅ、とこの島でずっと聞いていたドザエ様の歩く音が聞こえる。
また形がとっているが、もはや人とも言えない塊に海藻のような髪を引きずったドザエ様は、それでもなお手にも似た触手を橙子達へ伸ばす。
『カ、……ョ……』
「かよさんはここに居るぞ!」
言うなり、久次は浜木綿の花をドザエへ投げる。
ふわっと、浜木綿は吸い寄せられるようにドザエの伸ばす触手に吸い込まれる。
ぼちゃん。
ドザエの体に波紋が広がる。
そして、水が爆発した。
どっと、ドザエの質量からは考えられないほどの海水が襲いかかってくる。
「なんでだよおおお!!!??」
絶望の声を上げる久次の手を、橙子は握ってさけんだ。
「手は離さないから!」
「っ!」
目を丸くする久次と橙子の腰に静真の腕が回る。
「飛ぶぞっ」
固い声音が響くと共に、橙子は海水から空に逃れた。
浮かび上がったとたん、今まで居た場所に濁流のように押し流していく。
しかしほっとした矢先、濁流は津波のように伸び上がり橙子達を飲み込んだ。
橙子は海の中に居た。
こぽ、と橙子の口から空気が漏れる。
一瞬の戸惑いののち、橙子は海中に居るのだと気づいた。
どちらが海上かもわからず、ばたばたと腕を動かすが、恐ろしく緩慢だった。
あ、と。思い出す。
これは、橙子が見た夢と同じだ。
もがいて、伸ばして、呼んで、
わかっていたのだ。もうあの人は逝ったあとで、出会えるはずはないのだ。
涙は海に紛れて。
けれど。橙子は片手に強く力を込められた。
握られた手が引かれる。
あ、
「(あ、)」
ふ、と橙子の体が軽くなる。
水中でにじむ視界の暗がりに、なぜか鮮明に女性の姿が現れた。
安堵の表情を浮かべたその女性は、暗い暗い海の底へと沈んでいく。
だが、その先にいた黒い塊が徐々に人の……男性の姿をとる。
橙子にはその男性の顔まではわからなかったが、女性はうれしそうに手を伸ばして、男性の手を握る。
……あぁ、やっと、みつかった。
安堵の声が響いた。
とたん、体の重みと息苦しさが戻ってきて、橙子はごぼっと息を吐いた。
あ、これは、しぬ。
だが腕がつかまれ、体が急激に引き上げられる。
誰かが必死に呼ぶ声とぬくもりを感じた気がした。
「橙子さん!!!!」
久次の声と、どんっと胸に衝撃を感じた。
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