第5話 思い出4
トイレに行きたくて真夜中に部屋を抜け出した。そしたら、どこからか、クロシェ先生の声がきこえたの。こんな時間に、独り言かしら、変な先生、なんて思って、興味本位で扉を開けてみると、となりには使用人の制服を着たメニーがいた。
「これは読める?」
「魔法使いは全滅した」
「そうよ。すばらしいわ」
その行為が、この家ではしてはいけないことであると、だれもがわかっていた。数が減った使用人ならともかく、ベックス家のだれかに見られたら到底ゆるされることではない。
メニーは真剣な顔をしている。クロシェ先生も、真剣に仕事を全うしていた。あたしはそれを扉の隙間から見た――という夢を見るようになった。
それもそれが毎日つづくの。
「ママ、最近ね、あたしのどがかわくの」
「冬だから乾燥しているのかもしれないわね」
「そうね」
乾燥している時期だから、あたしはホットミルクが欲しくなって、真夜中にキッチンを行き来してた。ママが歩いてたら、ママと廊下で大声でおしゃべりしながら、部屋に送ってもらった。
「ママ、夜のホットミルクって美味しいのよ!」
「テリー、声を静かに。それと、夜の飲食は太るからおやめなさい」
「しょうがないわよ! 部屋が乾燥してるんだもん!」
あたしの声が響けば、部屋にいるだれかが気づくかもしれない。そしたら、声を出す行為をやめるだろう。そして、あたしの声がはなれていけば、また再開することだろう。
朝になれば、あたしはノートを開いた。アメリは今日も寝坊で遅刻だ。あたしと先生はアメリが来るのを待った。そんなときに、クロシェ先生が窓を見上げた。
「見て、テリー。あの雲の形」
あたしは窓から雲を見上げる。
「そろそろ雪が降るわよ」
「そうなんですか?」
「ええ。あれは低気圧の関係で作り出される雲なの。あの形が見えたら、雪が近いうちに降り始めるわ」
「へえ」
あたしは雲を見つめながら言った。
「先生、我が家の十二月二十五日は、クリスマスパーティーを行います」
「へえ、そうなの」
「プレゼントを用意しなくちゃ」
「そうね」
「先生も用意してくださいね」
「もちろん。素敵な贈り物をさせていただくわ」
「それと、クリスマスには赤い服の魔法使いが来るから、みんな、早くに寝るんです」
「へえ、そうなの」
「使用人たちも、実家に帰る人が多いので、屋敷は少し静かになると思います」
あたしはクロシェ先生と顔を見合わせる。
「真夜中ならなにをしていても、だれも気づかないでしょうね」
クロシェ先生が瞬きをした。あたしは教科書を開いた。
「今日は、何ページでしたっけ?」
「……ふふ。いいわ。アメリアヌを待ちながら、先に始めてしまいましょう」
クロシェ先生が言った。
「今日は――」
翌日も、
「ねえ、テリー」
先生はタメになる話をあたしにしてくれた。
「テリーは、将来どんなお仕事をしてみたい?」
「仕事はしません」
あたしはにこやかに答える。
「あたしは将来、お嫁に行くんです。だから、働かなくてもいいんです」
「あら、テリー。それはもったいないわ。この国は、女が働いてても偏見がない国なのよ。もしあなたがお仕事をするなら、どんなことをやってみたい?」
「お仕事って、つらいんでしょう?」
「時にはね。でも、とても楽しいものでもあるのよ。私は先生になるのが夢です。たくさんの生徒を持ち、教師として人生を終える予定です。もしも、あなたがなるとしたら、どんな仕事をみたい? なんでもいいの」
「なんでも?」
「そう。なにがしてみたい?」
「……考えたことありません」
「じゃあ、今考えてみて」
「……。楽な仕事がいい」
「あなたにとって楽なお仕事ってなにかしら」
「……わかりません」
「例えばよ」
クロシェ先生の授業が始まる。
「絵を描く。お金を貰う。これもお仕事よ」
「絵を描くだけでお仕事になるんですか?」
「そうよ。お金を貰ってる時点で、それは一つの作品になるのだから、それをお客さまが求めれば、それは立派なお仕事よ」
「他には?」
「そうね。ここのお屋敷で働く人。ギルエドさんも、そうね。執事もお仕事」
「ええ」
「それから、楽器の演奏者。彼らもお仕事よ」
「え? 楽器を弾くことが、お仕事なの?」
「なぜプロの演奏者と呼ばれる人たちがいると思ってるの? 彼らはお金を貰えるから楽器を弾くの。だからこそ、その分に見合う技術を磨くの」
「じゃあ、あたしも楽器を弾けば、お金がもらえるの?」
「そうね。お客さまがつけば、それも立派なお仕事よ」
クロシェ先生はあたしに教えた。
「仕事って辛い内容のものもたくさんあるわ、雑用、掃除、その他色々。でも、趣味を仕事にしてしまえば、それはそれでまた楽しいでしょう? 私の場合はそれ。人に教えることが好きなのよ。ただ、好きなことが仕事じゃない人は、数多くいるわ。でも、これはただの授業だから。だから、テリー、考えてみて」
クロシェ先生はあたしに質問する。
「あなたは、どんな仕事をしてみたい? なんでもいいの。答えてみて」
あたしは思った。少なくとも、メニーみたいなのはいやだわ。メイドになるのはぜったいいや。
(仕事か)
働くってどんな感じなんだろう。
(みんなしんどそうで疲れた顔してる)
(でも商店街の人たちはいつでも笑ってる)
(あんなに大声出して楽しいのかしら)
(変なの)
大人になったらわかるのかしら。
(するにしても、あたしは)
「先生、あたしはリオンさまのお嫁さんになるから、お嫁さんの仕事をします」
「あら、素敵なお仕事じゃない」
そう言ってくれるのは、クロシェ先生だけだった。翌日も、違う日も。自分の目が充血していても、クロシェ先生はやさしかった。
「テリー」
「はい。クロシェ先生」
「あなたは、とてもやさしいのね」
「ふふ。突然、どうしたんですか?」
「いいえ、なんとなく」
「そうですか」
「テリーは、勉強が好き?」
「勉強はきらいです」
「テリーは勉強が大切だと思う?」
「思いません」
「勉強をすれば、あなたの役に立つわ」
「どんな風に役に立つんですか?」
「あなたを守ってくれるの」
「勉強がですか?」
「そうよ」
「勉強すれば、自分の身を守れるんですか」
「そうよ」
「学べば幸せになれますか?」
「自分の身に備われば、幸せになれるための役に立つかもね」
「かも、なんですか?」
「人によって、それは違うわ」
「クロシェ先生、先生はどうして勉強を教えるんですか?」
「それがわたしの仕事だから」
「クロシェ先生、先生はどうしてここに来たんですか?」
「必要だと言われたから」
「クロシェ先生、先生はこの屋敷が好きですか?」
「貴族のお屋敷は、慣れないわね」
「クロシェ先生、先生はこの先どうなりたいですか?」
「わたしは先生になりたいの。家庭教師じゃなくて、学校の先生。そこで、子供たちに色んなことを教えてあげたいの。選択の答えは一つではない事。様々な選択があること。考え方を変えたら、不幸が幸せになること。それを教えてあげたいの」
「クロシェ先生、先生はあたしたちを幸せにしてくれますか?」
「その手助けが出来ればと思ってます」
「助けられますか?」
「え?」
「クロシェ先生の教えを必要な人が、どこかにいると思います」
あたしはクロシェ先生を見つめる。
「助けられますか?」
「テリーは」
クロシェ先生は、一度ドアを開けた。廊下と部屋に、だれもいないことを確認してから、扉を閉めて、呟いた。
「これはわたしのひとりごと」
クロシェ先生が、目をつむった。
「テリーは、だれかの幸せを願っているのね。そのだれかは、あなたにとって大切なのかどうか、あなた自身にも、きっとわかっていない。だけど、同情でも、哀れだと想っていても、あなたはだれかの幸福を、この屋敷のなかでだれよりも願っている。それは正しいことではないかもしれない。それはこの世界において、間違っていると教えをもらっていることかもしれない。でも、わたしとしては、そんなことは関係ない。正しいのか間違っているのか、それはテリーが決めること。あなたの気持ちは、間違いなんかじゃない。あなたが素直に想っているその気持ちは、本物。だれになんと言われようと、その本物を忘れないでちょうだい。それを失ったとき、あなたは大切なものを欠けてしまうことになる。いい? テリー」
クロシェ先生が、ひとりごとをつぶやく。
「あなたは、なにも間違えてないわ」
クロシェ先生が、呟く。
「間違えてないわよ」
呟き終えると、先生は、あたしに振り向いて、上げた瞼から瞳を見せて、にこりとほほえんだ。
「ひとりごとはおしまい。さあ、アメリアヌが来ないけど、先にお勉強を始めましょうか」
その日、クロシェ先生は教材を買ってくると言って出かけた。
「帰ってきたら、授業をしましょう」
「はい」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
あたしは手を振った。クロシェ先生も手を振って、屋敷から出ていった。そして、もう帰ってこなかった。
「先生は辞められました。次の先生が来るまで、準備して待っていなさい」
ママはそう言った。でも、メイド達が噂していた。
「ミス・クロシェ。あの人、変死体で見つかったんでしょ?」
「ああ、あの広場の外でってやつでしょう?」
「そうそう。街から外れたところで倒れてたって」
「教材を買った帰り道だったとか」
「お嬢さまたちへの参考書を買いに行っただけなのに、可哀想に」
「なんでも、体内にあるはずの血液が一滴も残ってなくて、首に小さな穴が二つあっただけなんですって。警察はオオカミにやられたんじゃないかって言ってたけど、オオカミが人間の血を一滴残らず飲んだりすると思う? あれはぜったいなにかに巻き込まれたのよ」
「なにか得体のしれない獣とかに、襲われたに違いないわ!」
「やだーあ! こわーい!」
あのメイドたちは、何を言っているんだろう。
クロシェ先生は生きてるわ。
だって、帰ったら授業をすると言っていたもの。
「初めまして、新しい家庭教師の」
クロシェ先生は?
お前は誰?
あたしの先生は、クロシェ先生だけよ。
クロシェ先生は帰ってくるわ。
だって、クリスマスに一緒にパーティーをすると言っていたもの。
夜は、みんな静まって、屋敷が静かになると、伝えたもの。
彼女しかいないのに。
先生しかいなかったのに。
「初めまして、新しい家庭教師の」
勉強なんかしたくない。
お前なんて先生じゃない。
「テリーお嬢さま! また鞭を打ちますよ!」
あたしは授業をさぼった。
もういやだった。
限界よ。
みんなうそつき。
みんな消えていく。
大人なんかだいきらい。
だれもわかってくれない。
「テリー」
あたたかい手袋が、あたしの背中をなでる。
「君は今、喜怒哀楽で、どの感情?」
会いにいくために、
ばれないように、
手がかりは一切残さない。
これだけは、ぜったいに失ってはいけない。
屋敷の鍵はギルエドの部屋。
取りに行くことはできない。
あたしは仕方なく、鉄の棒を握った。
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