第4話 文学館でのふたり

 その日一日、授業はまったく頭に入らなかった。時間割を指折り数え、最後の科目が終わると、僕はすぐに教室を出た。昨日までとは違って、行かなければ、という衝動が強く僕の足を前に進めた。

 昨日と同じ、薄暗い文学館。

 昨日と同じ、自習室のオレンジ色のランプ。

 でも僕は、昨日と同じ席には着かなかった。


最奥の、いつもの席には、先客がいたから。

重たそうな革の、古めかしい本。

それを捲る、形の良い指先。ときどき、顔にかかる巻き毛を払う仕草。


みぞおちがぎゅっと縮まり、腕の中のノートやテキストを無意識に抱きしめる。膝が固まるのは、居場所をなくした不安のせい、それとも…


「あ、の…」

喉がからからで、声はかすれる。そんな僕の狼狽にも関わらず、彼は顔をあげた。

「マリノー。勉強しにきたの?」

「うん、えっと、」

『ユースタス、君は?』その一言さえ、絞り出せない。

「ふふ、君って立ったまま勉強するのかい。」

「…ど、こに、座ったらいいか分からなくてさ。」

「変だね君は。空いてるじゃないか。」

ユースタスは僕の後ろを指した。振り向くと、確かにちらほらと空いている。あの、ユースタスの指定席も…。

 あの白い明るい日光は、いつもユースタスの巻き髪を照らしていたものなのに。行き場を失って、虚しい机上に落ちているだけだ。代わりに、ランプのオレンジ色の光が、今はユースタスの巻き毛を明るい色に見せていた。

『それ、何の本なの。』

苦し紛れに、僕は尋ねた。ユースタスの言葉にしたがって移動することもできたけれど、この温かい灯のもとから離れたくなかった。

「これ?」

ユースタスの左手が本の下に滑り込み、表紙を持ち上げる。

「魔術書さ。」

天使の真っ赤な唇から、不釣り合いに忌まわしい響きが溢れ落ちた。僕はタイトルを覗き込んだけれど、飾り文字は読みづらくて、その上見たこともない言語だったので余計に異様なものに見えた。

「魔術書…?」

どうしてユースタスは、そんな不気味なものを読んでいるのだろう?詳しくない僕でさえわかる。たしか、魔法は、悪魔の力を借りるんじゃなかったっけ…?紅く燃える光の中から、蒼い瞳が輝き、僕の目をひたりと射た。

「どうしたの。震えているの。」

白い手が延びて、僕の腕に触れる。

−ただの本だよ。ほら。

−怖いものじゃないだろう?


 蛇のとぐろから一目散に逃げる兎のように、まさしく脱兎の勢いで僕は逃げ出した。迷い込んだ洞窟に眠る、触れてはいけない秘密タブーに触れてしまった、哀れで愚かな旅人のように…。

 腕に残る、たおやかで温かな感触の余韻を感じながら…


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