最終話 犬釘
仰け反った邦松の目に映ったのは、焼け火箸を持った万吉だった。万吉は煙が燻る赤々と熾った焼け火箸をゆっくりと邦松に向けた。金縛り状態の邦松の喉に焼け火箸がゆっくりと刺さって行った。その万吉が絹子の姿に変わった。目を剥いて痙攣する邦松の喉元深くには犬釘が刺さっていた。
時春たちの目には、邦松が自分で自分の喉に犬釘を突き刺した姿が見えていた。
邦松は膝から落ちた。そしてゆっくりと反り返ったまま痙攣が止まり、息絶えた。その顔は安堵の表情だった。
絹子が時春たちの前に姿を現した。
「絹子!」
絹子は時春を愛しげに見つめ、そして消えた。
「絹子が仇討ってけだんだ。したども、おめだぢはなんも見ねがった。んだべ!」
朝子は静かだったが、いつにない強い口調だった。ふたりは頷いた。
「ジッチャにゴミ片付けてもらうべ」
夜来からの激しい雨が上がった明け方、朝子の父・貞八率いるマタギ衆がやって来て奥の土間から邦松の遺体を運び出した。
マタギ衆は、鬼ノ子山深くの白煙たなびく炭焼き窯に佇み呪文を唱えていた。その中央には一同に護られるように絹子が立っていた。貞八が嘯いた。
「邦松は気の毒なやつよ。したどもこの村は善い人だけが暮らす村…悪い人は消える村だ」
鬼ノ子村は代々、大人でも神隠しに遭った。村の秩序を守るため、先祖は神隠しとして性悪な者を闇から闇に葬り去って来た。万吉も邦松も消え、忌々しい金村の家は絶えた。
おにぎりの包みを持った朝子と龍三が、帰社する時春の見送りに出ていた。
「お世話になりっぱなしで…」
「がんばったね、時春さん!」
「おばちゃんのお蔭です」
「時春、これ…御守」
龍三は時春に一本の犬釘を渡した。
「また来てね…って言うと、嫌な事件が起こりそうで言い難いね」
「一回、何もない時に来て、この嫌な流れを断ち切ります」
「そうしてちょうだい! 待ってるね!」
時春はこの数日のうちにかなりやつれていた。朝子と龍三は、再び振り出した豪雨の中、曲がりくねった阿仁街道を車で帰るという時春が心配だったが、笑顔で見送るしかなかった。
案の定、運転する時春は直ぐに強い睡魔に襲われた。タイヤが砕き損ねたバラスを弾いた振動で我に返った時春の行く手に、また絹子が現れた。
「絹子!」
ずぶ濡れの絹子は時春を指差した。
「絹子、オレはここで死ぬのか?」
絹子は時春を指差しながら、清乃の言葉を思い出していた…“時春なら、絹子に教えてもらったら、何とか乗り越えられるかもしれないじゃない? 教えなかったらそれまでなんだよ”…何かを乞うような絹子の表情に、時春は急ブレーキを踏んでいた。
外の空気を吸おうと雨の滴る窓ガラスを下すと、すぐ先に鬼ノ子村の駅舎が見えた。
「…絹子」
時春は駅の駐車場に車を乗り捨てて汽車で帰ることにした。
絹子とふたり、この駅舎で終電まで座っていた事がある。時春はあの時と同じ場所に座ってみた。そうしていると隣に絹子が居てくれる気がした。隣を振り向いても絹子が居るはずもなく、虚しさと強い悲しみに襲われるだけだったが、心地は良かった。
じっと絹子が現れるのを待った。そのうち絹子との駅舎での思い出が蘇り、絹子の息遣いを感じながら、時の経つのを忘れた。そして、あの時と同じように鷹巣駅行きは最終便になってしまった。
雨脚は止む気配もない。時春は重い腰を上げて乗客の居ない阿仁合線の最終便に乗った。
最終便の座席はひんやりと疲れていた。
途中、鬼ノ子川に架かる赤い鉄橋を過ぎた辺りで、豪雨が滝のように伝う汽車の窓から赤色灯がちらつく阿仁街道が見えた。行方不明だった男の足の切断された遺体が、土砂崩れで街道に流れ出たらしい。
「多分、熊だしべな」
乗客一名を乗せた運転士はそう話してくれた。
記者として次の駅で降りなければならないのかもしれないが、因果な二つの取材でズタズタになった時春には、もうその気力さえ残っていなかった。寧ろ退職を考えていた。この豪雨で夢が流されていく。夢を持ったことすら跡形もなくなる未来が容易にイメージ出来た。
結局、自分は春久の弟でしかない。自分の家族は誰も這い上がれない黒い岩で覆われている。自分一人頑張ったところで、代々どうにもならないさだめにでも縛られているんだろう。それに何より、絹子が居ない。絹子の居ない自分の未来に何の意味があるんだろう。
疲れた…せめて終点まで眠ろうと、上着の両ポケットに手を突っ込んだ。右手に硬いものが当たった。ポケットの中で握ったそれは、龍三に渡された犬釘だった。時春はふと、中学の同窓会で和男が“おれ…絹子に指差された”と言っていた言葉を思い出した。
気が付くと、時春はずぶ濡れで土砂崩れの現場に向かっていた。
〈 完 〉
怪談「指を差す女」 伊東へいざん @Heizan
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