第7話 初取材

 村で一軒しかない民宿「シカリの宿」に泊まっている釣り客が、牛洗橋の少し下流で流木に引っ掛かった女性の遺体を発見した。


 時春は車で胸騒ぎを覚えながら阿仁街道を南下していた。地元新聞社に就職したばかりの時春にとって、記者としての初仕事がまさか生まれ故郷で起こった身投げの取材だとは想像もしなかった。


 身投げ現場となった牛洗橋には幼い頃母に度々連れて行ってもらった。母は釣りをする時春の傍に座って、ただ川の流れを眺めているだけだった。時春はふと思った。川に行くなら家から近い雨降り様と呼ばれている天候を予知する崖の下に行くのに、どうしてわざわざ家から遠い牛洗橋の下まで連れて行ったのか…確かにそこはイワナの大物が良く釣れた。しかし、釣りをしない母がどうしてそんな穴場を知っていたのか…生まれ育った土地が近付くにつれて、時春は幼い頃の母との思い出を錯綜させていた。

 途中、阿仁街道から阿仁合線の鬼ノ子村駅舎に何気なく視線を投げて通り過ぎ、慌てて急ブレーキを踏んだ。駅舎のベンチに座っている絹子に気が付いたからだ。時春は車をバックさせてもう一度駅舎のベンチを覗いた。が、既に絹子の姿はなかった。近くに居るだろうと、駅への坂道を徒歩で下りて駅舎の中や周囲を探したが、やはり絹子はいなかった。勘違いだったかと思うと同時に激しい胸騒ぎを覚えた時春は、取材現場の牛洗橋に急いだ。

 現場に着くと丁度橋の下を眺めている人だかりがどよめいた。時春もカメラを片手に駆け付けて橋の下を覗くと、川岸の斜面を地元消防団の担架で遺体が登って来るところだった。とっさに構えたレンズ越しに、ずぶ濡れの哀れな姿が映った。逸る心を抑えてズームした。“絹子じゃない!”と胸を撫で下ろしたのも束の間、次の瞬間シャッターの指が震えた。


「母さん!」


 遺体は残酷にも時春の実母・キネだった。カメラから心を裂かれる音がした。

 キネは、父・菅原文昭の強引な判断で万吉の後妻にさせられ、時春は兄の春久と二人、祖父母のもとに預けられた。


 万吉の家は代々、村の豪農だが、その呆れるほどの吝嗇ぶりには村人の誰もが敬遠する存在だった。キネはそうした家柄の後妻に入っていた。


 時春は運ばれて来る母の遺体に近付こうとしたが駐在に制止された。時春をよく知る西根巡査だったが無言だった。救急車のバックドアが閉まり、キネの遺体を収容した救急車はサイレンを鳴らして去って行った。現場周辺はロープが張られて立ち入り禁止になり、時春はロープの外に出された。自殺なのか他殺なのか何も考えられなくなった時春の心は萎えた。帰りたい気持ちを消し、取材しようという気を奮い立たせるのが精一杯だった。


 狭い村である。身投げなら誰かがキネの事情を知っているはずだ。そう思った時春の足は、自然と朝子の食堂に向かっていた。


「来たか、時春さん」


 朝子はいつもと同じに時春を迎えてくれた。


「お休み貰って来たのかい?」


 当たり障りのない朝子の言葉に促されて、時春は食堂の椅子に掛けた。


「…新聞記者になったんだ」

「あれぇー、時春さんが新聞記者にねえ! ひば、仕事で?」

「はい…牛洗橋で…」


 朝子は時春の言葉に被せた。


「あんたは小さい時から賢かったからねえ…そうかい、新聞記者さんにねえ」


 そう言いながら朝子はお茶を出した。


「おばちゃんにはご恩があるよ。お腹空かして農道を歩いてると、よくここに連れて来てご飯を食べさしてくれたよね」

「あんたは我慢強い子だったから、つらい思いもたくさんしてたでしょ。ほっとけなくてね。実家には?」

「行かない…春久には会いたくない」

「そう…じゃ、ここにも来なかったことにしておくね」

「ありがとう、おばちゃん」


 時春は昔の嫌な思い出を、朝子の優しさで消した。食堂の傍を流れる“とよ”(極狭い堰)の音を聞きながら、お互いに話す言葉を探していた。時春はお茶を啜って話し出した。


「牛洗橋から身投げした人…母さんだった」


 朝子は静かに頷いた。


「母さん…悩みあったろうに、オレになんも連絡してけねがった」

「キネさんはあんたたちに申し訳ないと思ってたみたいだからね。金村家に後妻に入れられて、しこたま苦労して…可哀そうなことした」


 朝子は堪り兼ねて前掛けで口元を覆い…


「新聞記者としての初仕事が、自分の母さんの飛び降り自殺だなんて…神も仏もあったもんでねべ」


 朝子は肩を震わせながら台所に向かった。時春も湯飲み茶碗を持つ手が震えていた。台所で朝子が叫んだ。


「なして、こんたら事になったのか分からねども、初仕事なんだから、ちゃんと調べなさいよ! 負けちゃだめだよ、時春さん!」


 心が折れそうになる時春は、朝子の言葉で堪えた。おにぎりを握って気を取り直した朝子が台所から戻って来た。


「そういえば、昨夜遅くに万吉さんが来たんだよ。キネが来たらすぐ連絡しろって豪い剣幕でね。キネさんの実家に行った帰りだったみたいだよ」

「母さん、実家には行かなかったんだべな」

「んだべよな。あちこちさ探し歩いでも居ないんで、あの権幕になったんでねべがね」

「んだしべな」

「そう言えば、なんか家を出る時に変なこと言ってたって」

「変なこと? 母さんが?」

「んだ…確か…“雨降って川の嵩深いから、出掛ける時は気を付けでけれ”とかって…ここんとこ雨なんか降ってないのに」


 時春にはピンと来た。万吉に残した最後の言葉“雨降って川の嵩が深いから、出掛ける時は気を付けて”は、宋時代に夫婦の間を切り裂かれ、死してひとつとなった「連理の枝」の説話に基いたキネなりの別れの言葉だ。時春は知る由もないが、その別れの言葉は独身を通したまま営林署で働く義昭に向けたものだった。

「おばちゃん…もしかして母さんには結婚出来なかった好きな人がいたんだべか?」


 時春の言葉に朝子は胸を締め付けられる思いだった。本当のことを話すべきかどうか迷った。


「おにぎり握ったから持ってって。食べないと仕事できないよ。最初にこれだけつらい仕事したら、この先もう怖いものないべ」

「おばちゃん!」


 朝子は観念した。


「キネさんに好きな人…居たよ」

「…誰ですか?」

「営林署の中村義昭さんだ。キネさんの幼馴染み。兄妹みたいに仲が良かったから村の人はあのふたりは結婚するものとばっかり思ってたんだ…ていうか、結婚して欲しいとね」

「祖父のせいですか?」

「そうだね。キネさんの気持ちを知りながら、別の相手を…」


 朝子は口籠った。


「祖父には自分の娘が何に見えてたんだろ…母は祖父から逃げられなかったんだろうか」

「強引に結婚決められるってキネさんがここへ逃げて来たことがあったよ。でもお祖父ちゃんに無理矢理連れてかれて…何もしてやれなくてね、気の毒だった。それが最初の結婚。それからあんなことがあって、今度こそ義昭さんと結婚できるなって思ってたんだけどね。万吉さんの後妻にされでしまって…」


 朝子は当時のことを思い出して、また前掛けで口元を覆った。柱時計の音が妙に響く。


「おばちゃん…話してくれてありがと」


 そう言って朝子の握ってくれた暖かいおにぎりの包みを持ち、食堂を出て行く時春の背中は老人のようだった。


 食堂を出た時春は、昔遊んだ道沿いの“とよ”のせせらぎに足を止めた。季節外れの蕗の薹がすっかり開き切って居直っていた。時春は郷愁に誘われ、蕗の薹の隣に腰を下ろした。

 迷っていた。取材出来てるのは使えないであろう遺体の写真だけ。その写真にしてもピンぼけの可能性が高い。不覚にも指が震えた。このまま手ぶら同然で帰社は出来なかった。

 兎に角、車に戻って事実のみを記録しようと立ち上がると、いつの間にか隣に邦松が座って居た。驚いたが、邦松を見てこれからやるべきことが薄ら見えた気がした。

 金村家に後妻に入った母のキネにとって、邦松は義息子にあたる。時春は金村家のお家事情もある程度は知っていたが、偶然とはいえここで邦松と話す機会を得たことは神憑り的に思えた。


「邦松さんじゃないか」

「…うん」

「オレのこと分かるか?」

「知ってるよ。時春だよ」

「知ってたか、嬉しいよ」

「知ってるよ。時春は優しいよ。殴られてたら助けてくれた」


 邦松は万吉の目の届かない所で一部の村人たちに暴力を振るわれることが多々あった。邦松の奇行は村人の理解を越えていた。

 邦松が覚えていたのは、時春の兄の春久に殴られた時のことだ。春久は邦松とは違う意味で素行が悪く、邦松の手持ちの金をよく巻き上げていた。その事を知ったのは絹子からだ。時春の陰で兄のことが噂になり、時春までが後ろ指を差されているのを、絹子は堪り兼ねて時春に話したのだ。そして、時春が自身でその現場を目撃した日に怒りが爆発した。

 それは中学に入ったばかりの春だった。相撲の強かった時春は、痩せの春久に猛突進して行った。兄弟はそのまま田植え前の泥田圃に突っ込んだ。思いっきり泥を飲み込んで七転八倒する春久を放って、泥の中からひとり這い上がって来た時春は、邦松に泥だらけの財布を返して謝った。邦松は“いらない”と言った。“おまえの金だよ”と言うと、邦松は“汚いからいらない”と言った。“とよ”で泥を流して再び邦松に差し出した。乾けばきれになるよというと、邦松は素直に受け取った。


「あの時もこの場所だったな」


 邦松がせせらぎを眺めながら一向に立つ気配がないので、時春も再び腰を下ろした。小一時間ばかり話すうち、邦松から重大な話が飛び出した…といっても邦松は少しばかり人とは違っている。その話が真実かどうか半信半疑ながら時春は裏を取らねばと思っていた。


 時春はその日から村人の目に付かないように万吉の家を張ることにした。かといって時春にとって忌々しい実家に寝泊まりする気は全くなかった。暫く民宿「シカリの宿」に泊まろうかとも思ったが、村に一つしかない宿に泊まると、取材のための滞在が村中に知れ渡って警戒されてしまう。時春の足は、また朝子の食堂に向かっていた。


〈第8話「金村家の癌」につづく〉

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