075 荘興、喜蝶の名前を白麗と改める・その4



 

 少女の記憶は長く持たない。

 それはまるで、掌で掬った水に似ている。

 あっという間に、指の間から、ほとんどの水は漏れ出る。


 それでも常に少しは、その窪みに水は残っている。

 少女が人としての生活を保てるのは、そのわずかに残った記憶のおかげだろう。


 しかし、指の先についた小さな水滴は、朝日を受けた草の葉の露のようにはかなく消えていく運命だ。

 それは、ものの名前であったり、地名であったり、人の姿形であったり……。


 口から発する言葉は消えてしまうが、字は紙の上に残る。

 少女の記憶を少しでも長く留めるということに、字は役立つのではないか。

 そしてまた、少女の記憶の奥底にあるものを、明るみに引っ張り出す力となってくれれば。


 少女はどこから来てどこへ行こうとしているのか。

 本当の名前はなんというのか。


 記憶が長く持たず言葉が不自由でも、少女が聡明であることは、この数か月の暮らしぶりを見ればわかる。


 難しい字を覚えて書くことは出来ないだろう。

 しかし、読むのも書くのも簡単な字であれば、繰り返し書くことによって覚えられるのに違いない。






「白麗……」

 新しい名前の響きを、舌の上で味わい耳の奥で楽しむ。

 そして、ゆっくりと荘興は言葉を続けた。

「どうだ、字というものを書いてみるか?」


 意味のわからぬ大人二人の話に、退屈を持て余していた少女の顔がぱっと輝く。

「ジ・ヲ・カ・ク」

 それはきっと新しい遊びの始まりに違いない。


「これは筆、これは硯、そしてこれは紙。

 このように筆に墨を含ませて、字を書く。

 簡単なことだ。

 絵を描くか、字を書くか、そのことに、たいした違いはない」


 少女を机の前に座らせて、後ろからその体を抱く。

 荘興は若い時から、背も高くよい体格をしていたが、それは、五十歳という年齢になった今も変わらない。

 少女の華奢な体が、彼の腕の中に収まった。


 筆を持った少女の手に、自分の手を重ねる。

 火鉢で炙られたその手は温かく滑らかで小さく、細い指も形のよい爪も可愛らしく愛おしい。

 

……昨年の菊の香の漂う夜に、湯に浸かる猿を見に、荘家の湯治場に連れて行こうと約束したが。

  なにかと忙しく、果たせていない……


 想いが、あらぬ方へと飛んでいく。


……あの夜、あのまま抱いておれば。

  いや、いま、このまま寝所に連れ戻り、字などよりもっと別のことを教えても……


 部屋の隅で畏まっていた萬姜の体が、緊張に堪えられずかすかに動く。

 腕の中の少女が体を捻って彼を見上げる。

 これから起きるであろう楽しいことへの期待で、白い顔のその薄い金茶色の目は明るい。


「おお、これはすまぬことをした。

 初めて書く字はなにがよかろうかと考えていたのだ。」


 少女の筆を持つ手にそえていた手に、力を込めた。


「そうだな……。

 白麗の<白>がいいだろう。

 これは、白いという意味を持つ。

 白麗、おまえの髪と肌の色だ」

 

  

 






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