073 荘興、喜蝶の名前を白麗と改める・その2




 言葉を理解しづらく話すことが難しい少女は、紙に書かれた文字もまた読むことは出来ないようだ。


 横にひかえていた萬姜が、いたたまれないというふうに身を固くする。


「お嬢さまは、字の読み書きは苦手のご様子ですが……。

 絵はお上手です」


 責任感の強い下女は、女主人の読み書きのできないことに自分が責められたかのように恐縮した。

 しかし、荘興の許しも請うことなく口を挟んでしまったことに気づく。

 頭が床につくほどに平伏して、彼女は言った。


「出過ぎたこと言ってしまいました。

 申し訳ございません」


「よいのだ。

 萬姜、おまえが気に病むことはない」


 そして、すでに手の中の紙に興味を失っている少女に視線を戻す。

 言葉の不自由な少女に、荘興はかみ砕くようにゆっくりと優しく言った。


「これは『ハクレイ』と読む。

 喜蝶さまの名前を、このように改めようと思う。

 昨年の夏の終わりに慶央に来られてより、いまはもう、新しい年も明けた。

 名前も気持ちも新たにして、喜蝶さまには、慶央の人になってもらわねば」


 髪の真白い少女はその金茶色の目をしばたたかせながら小首を傾げて、目の前の男の言うことを聞いていた。

 しかし、どれほどに理解できたのか。


 喜蝶という名は、いつ、誰がつけたのか。

 その前の名はなんであったのだろうか。

 三十年前に旅の老僧・周壱から彼の尊師の若いころの思い出として、髪の真白い少女の話を聞いたが、その時の少女の名前もまた違ったものであったことだろう。


 荘興の長い沈黙に堪えかねて、萬姜がもぞもぞと体を動かす。

 それを目の端に捉えて、想いを戻した荘興は言った。


「萬姜、白麗という新しい名をどう思うか?」


「お嬢さまによくお似合いの、よい名前と思われます」


 萬姜の答えに、満足げに荘興は頷いた。


「では、新しい名前の正式な披露目は来月の梅見の宴で行うこととする。

 しかしながら、喜蝶さまには新しい名前に慣れてもらっていたほうがよい。

 今日から、奥座敷では白麗さまと呼ぶように」


 名前を変えるということは、少女の素性や荘興との関係についての世間の興味本位な噂を封じ込める意味もある。


 また、あの趙藍と蘆信という姉弟の言動から察するに、少女は西の果ての国から逃れてきたらしい。その国から逃れるのにどのような理由があったのかは知らない。


 だが、人とは思えぬ不思議さと美しさを持った少女だ。


 そのうちに、連れ返そうと、追っ手が来るかもしれない。

 その者たちの目を欺くにも、名を変えるのはよいことだろう。


「そうだ、萬姜。

 允陶より梅見の宴のことは聞いているな?」


 ここ荘本家の屋敷では、正月らしい行事はしない。

 荘家の仕事場であって、住居ではないからだ。


 大晦日とそれに続く正月の数日は、荘興も慶央城郭内の本宅に戻り、妻の李香とともに新しい年を祝うのが慣例だ。


 その代わりに、梅の花が咲き始めるころに、客人を招いて華やかに梅見の宴を開く。





 

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