071 喜蝶と萬姜母子、慶央の街を歩く・その8



 今日の萬姜の外出の目的は、針と糸をあがなうこと。

 初めてみる慶央の街は美しく、彩楽堂の大きな店構えも男ぶりのよい主人の顔も眼福ではあるけれど、目的を叶えずして帰ることは出来ない。


「お言葉に甘えて、お針箱二つは嬉しく頂戴いたしたく思います。

 しかし、お着物の反物は受け取ることは出来ません。

 いつの日か給金を溜めて参りますので、その日までどうか預かっておいてくださいませ」


 萬姜のかたくな言葉に、破顔一笑した彩楽堂だった。

 しかしながら彼の声は、客を相手にする商売人そのものだ。


「おや、萬姜さんはまだお気づきではないと。

 もう、支払っていただいたも同然でございますよ。

 店の外に出れば、萬姜さんにもきっと、わたくしの言葉の意味がわかっていただけることと思います」


 そして、苦笑いを浮かべている允陶に向かって、言葉を続けた。

「さすが、允陶さまはわかっていらっしゃるようでございます。

 では、お見送りいたします」


 彩楽堂の前の大通りには人だかりが出来ていた。


 その人の数は、喜蝶たちが彩楽堂の門をくぐった時の倍に膨れ上がっている。

 荘本家の荘興が囲っているという美しい少女を一目見ようと、待ち続けていたものたちだ。


 驚いて立ち尽くした萬姜にすっと体を寄せた彩楽堂は、彼女の耳元で囁いた。


「萬姜さん。

 次回のご来訪をお待ちいたしております。

 その時はもちろん、萬姜さんとそして可愛らしいお二人のお嬢さんたちにも、我が店で誂えました着物をお召しくださるようお願いいたしますよ」


 亡き夫に似たところのある彩楽堂が見せた抜け目のない商売人ぶりに、萬姜はおもわず顔が赤らんだ。





 丁寧な見送りを受けて、喜蝶たちは彩楽堂を後にした。

 彼らの後ろを、物見高い見物人がぞろぞろとついてくる。


 この状況に萬姜は首をすくめる。

 しかし、人々の視線が前を歩く喜蝶に集まり、その美しさを称賛している声が耳に入ってくれば、彼女の低い鼻でも少々は少々高くなるというものだ。

 

 そして、四つ角を二度曲がると、屋敷の建ち並ぶ一画に出た。

 目立たぬ門構えの屋敷の前に、数人の人が立っている。

 その中に、頭巾をかぶった小柄な老人が一人。


 数日前、ふらりとこの屋敷を訪れた允陶は、屋敷の主である古物商の舜庭生に言った。


「後日、喜蝶さまをここに連れてこよう。

 喜蝶さまはことのほか、甘い菓子を好まれる。

 頬の落ちそうな美味い菓子でもてなせば、笛の音が聴けると約束する」


 真白い髪の少女の姿を見つけた舜老人が小走りに駆け寄る。


「この爺、喜蝶さまの来訪をいまかいまかと待っておりました。

 通りを何度も見渡していたゆえに、首が鶴のように長くなりましたぞ。

 さあ、どうぞどうぞ、中にお入りくださいませ」


 老人はその皺だらけの両手で少女の手を包み込むと、屋敷の内にといざなった。


 <宝>と云われる美しいもの珍しいものを、生涯をかけて追い求めた庭生だ。

 その命が終わろうとする前に、初めて、人の形をした<宝>を見てそして触れたのだ。

 

 

 




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