070 喜蝶と萬姜母子、慶央の街を歩く・その7
突然、萬姜に向かって居住まいを正すと、彩楽堂の主人は言葉を続けた。
「不甲斐ない話ではございますが……。
彩楽堂で誂えたお着物を喜蝶さまに喜んでもらえることなく、袖すら一度も通していただけない状況は巷の噂になっております。
園剋さまのお言葉、『李香さまに恥をかかせるな』は、そのことを踏まえておっしゃられたお言葉です。
園剋さまには、ただの言葉遊び。
しかし、わたくしども商売人には『死ね』と言われたも同然。
もし、『李香さまに恥をかかせた』となれば、この慶央で五代続いた彩楽堂は、わたくし限りで店を畳むことにことになりましょう」
萬姜自身も、父母と夫を同時に亡くした後、叔父夫婦に乗っ取られたうえに店を潰された。彩楽堂のような大店と比べることはできないが、人の悪意によって、大切な店を畳まざる得ない辛さと無念は知っている。
「まあ、そのようなことが……」
だが、允陶は無駄口を嫌う。
腕を組み半ばその目を閉じて、彩楽堂の言葉を聞き流していた。
「しかし、本日、喜蝶さまにお越しいただいて、一筋の光明を見い出した思いでございます。
萬姜さん、この彩楽堂、たってのお願いがあります。
喜蝶さまにお似合いであろうと思われる着物を心を込めてお誂えいたしますので、喜蝶さまがお召し下さるように、ぜひにお力をお貸しください」
義憤に駆られた萬姜が大きく頷く。
それを見て安堵の表情を浮かべた彩楽堂だった。
そしてまた背筋を伸ばすと、今度は允陶に向かい合った。
「允陶さま。荘興さまのお身内であるお人を
あのお人の言葉一つで店じまいを余儀なくされた慶央の老舗や大店は、この十五年で両の手の指の数をもってしても足らぬほど。
皆、商売でこの慶央を支えてきたとの自負はございましたでしょうに。
まことに無念にございます」
命よりも大切に守ってきた店を畳むと、一度は覚悟した彩楽堂だ。
その言葉は、允陶の心を動かすほどに重かった。
胸の前で組んでいた腕を解き、目を開けた允陶は言った。
「宗主の胸の内を語る立場にはないが……。
彩楽堂、おまえの想いは宗主に伝わっている」
二人の男の間にそれ以上の言葉はいらなかった。
允陶が頷き、彩楽堂は深く頭を下げる。
そして、再び、彩楽堂はいつもの穏やかな商人の顔に戻った。
「これはこれは。
わたくしとしたことが、長話で皆さまの足を止めてしまいました。
古物商の舜さんが、首を長くして、喜蝶さまをお待ちでございましょう。
お見送りいたします」
そう言って立ち上がりかけた彩楽堂に、萬姜が慌てた。
男二人の話は、女の身には難しくて理解出来そうにない。
しかし、彩楽堂を立ち去る前に、目の前のことで解決しなければならないことが彼女にはあった。
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