068 喜蝶と萬姜母子、慶央の街を歩く・その5




 中庭を望む二間続きの奥座敷に、彼らは通された。


 中庭は四阿に池にと豪奢だが、広い座敷には何もない。

 家具はただ一つ、小さな飾り棚だけ。

 その上に置かれた香炉からはよい香りのする紫煙が一筋立ち昇っていた。


 この部屋で、貴族・豪族・豪商の妻女たちが品定めをするのであろう。

 目にも鮮やかな色とりどりの染めや織りの反物。

 それらが広げられるたびにあがる女たちの嬌声やため息が、市井の小さな呉服店の女房であった萬姜にも想像できた。






 彩楽堂の主人は、三十になったかならぬかの若さだった。


 顔つきも体格も昨年の春に病死した萬姜の夫とは違うが、女の楽しみに気長につきあう商売人が醸し出す穏やかな雰囲気と、腰の低さはよく似ていた。

 

……まあ、あたしったら、こんな大店のご主人様と死んだあの人を比べるなんて。

 なんと畏れ多いことを……


 彩楽堂の主人に見つめられた萬姜は思わず恥じ入って目を逸らす。

 またまた顔から火が出る思いだ。

 

 しかし、彩楽堂の主人は、萬姜の心内に気づいた様子はなかった。

 うつむいた萬姜から、彼は視線を庭に移す。


 庭の池に渡された赤い橋の上に、喜蝶と嬉児が立っていた。

 茶を飲んで出された菓子を食べたあとは、大人の着物談義に興味などない。

 そんな二人とっては、美しい庭はかっこうの遊び場所だ。

 はしゃぎすぎて池に落ちることがないようにと、二人から少し離れたところで、梨佳が見守っている。


「まことに愛らしいお嬢さまで……。

 天女だという巷の噂も、さもありなんと思われます」

 そう言って、彩楽堂の主人は允陶の同意を求め、それから再び萬姜に視線を戻した。


「ところで、あの打掛の袖と裾を切って、あのような形に?」


 今度は、顔から火が出るどころではなかった。

 思わず平伏してしまった萬姜の背中を冷たい汗が伝う。


「出過ぎたことをしてしまいました。

 お許しくださいませ」


「あっ、いやいや。

 これは萬姜さんを責めるために言ったのではありません。

 どうか、顔を上げてください」


 彩楽堂に立ち寄るのであれば、そう言ってくれてもよかったのに。

 なんと言われようと、顔など上げられるわけがない。

 いまさらながらに、允陶を恨めしく思う。


 彩楽堂は言葉を続けた。


「着物は着る人に似合ってこそでございます。

 そして、そのお人に喜んで着てもらってこそでございます。

 そこのところを、萬姜さんはよくわかっておられます。


 実を言うと、私は今日まで、喜蝶さまのお姿を拝見したことがございませんでした。ましてや、彩楽堂の着物をお召しになったお姿を。

 喜蝶さまのおおよその年恰好を、荘興さまと允陶さまにお伺いして、着物を仕立てさせていただいておりました」


「まあ! そのような!」

 驚いた萬姜が顔を上げた。


「しかしながら、荘興さまも允陶さまも、女の着るものにはお詳しくないようでございます」


そう言って彩楽堂の主人は磊落らいらくに笑ったので、つられて允陶も萬姜も笑った。






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