8. 今日九重の 菊のさかづき

どうにも仕方ない。義輝は鉄舟に助けを求めた。


 晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変らざりけり


徳川の幕臣を辞めて明治政府に出仕するときにその心境を詠んだ山岡の歌である。彼は嗜み程度には和歌を詠むことができた。

「君が代は、千代に八千代と歌ふべし、菊の杯、受くるかひなし、どうかな。」

「だめだな。まるで素人だ。」山岡は顔をしかめた。

「素人が素人の歌を詠んで何が悪い。」

「上の句は、直しようがないが、少しひねって、君が代は、千代よろづ代と歌ふなり、とでもしろ。下の句は風雅がない。帝を批判する文言は入れるな。ほのめかすだけで良い。今日九重の菊の杯、とでもしろ。」

「なるほど。それならまずまずか。」

「ああ。大丈夫だろう。」

そこで義輝は立ち上がって、朗々と歌い上げた。


 君が代は 千代よろづ代と 歌ふなり けふここのへの 菊のさかづき


「なんて下手くそな歌だ。」酔って赤ら顔の富小路がどなり声をあげた。陛下の御前で無礼なやつである。「ようし、では私が手本を見せてやろう。おまえのことを詠んでやる。いいか、


 酒に酔ひ 顔の形もひし島か 歌を詠むやら 恥をかくやら」


義輝は憤然として鉄舟に言った、「貧乏公家ごときに聖上の御前ごぜんでこれほどまでに愚弄されては、あやつを斬り殺すしかない。しかしながら、憎いやつとはいえ帝の重臣を殺害するには偲びぬ。酒席の上で凶行に及べば私は狂人として処罰され、一族郎党に迷惑をかけるだろう。かといって根に持って後で遺恨を遂げるのも馬鹿げている。私は黙って職を辞すしかない。」

「辞めてどうする。」鉄舟が問う。

「鹿児島に帰る。」

「鹿児島に?」

「ああ。」

比志島は薩摩国特有の姓で、清和源氏の裔、あるいは渡来系の一支族ともいう。

「まあ待て。おまえは、明治6年の政変で西郷南洲(隆盛)らとともに下野げやすることなく、皇国に奉職する道を一旦は選んだ。選んでおきながら、その公務を投げ捨てて国に帰るだと?それでは南洲と同じではないか。おまえは南洲を追って、いまさら南洲の一味になろうと言うのか。良く聞けよ。今西国では、おまえのような不平士族が、神風連、秋月、萩と立て続けに兵乱を起こしておる。いよいよやつらは薩摩の南洲を盟主に立て筑紫に一大蹶起を企てておる。そんなときに薩摩に帰ればおまえも巻き込まれぬわけにはいかん。いったん陛下の近衛隊長にまでなったおまえが南洲とともに逆賊となるのか。それがどれほど政府に、今上陛下に、ご迷惑となるかわからんのか。それも公家に馬鹿にされたという、ただそれだの理由でか。あんなやつ気にすることはない。知らんぷりして帝にお仕えしろ。」

「しかし男子の面目が。」

「おまえの面目と国家の大義のどちらが大事か、徳川の世を瓦解せしめた戊辰の役の意義を今一度思い起こせ。この俺を見ろ。元は旗本直参、徳川とくせん八万騎の武士の一人であった。今はこうして、膝を屈して薩長政権に仕えておる。おまえの恥辱と、俺の恥辱と、どちらが大きいと思うか。」

江戸っ子・山岡鉄太郎のかつが、薩摩健児けんじ・比志島義輝の心に響いた。

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