4. 侍従富小路敬直

帝が江戸城に入り、江戸を東京府と改称したのは慶応4年(1868年)9月、明治改元の5日前のことだ。江戸城の壮麗な本丸御殿は、1863年の文久の大火ですでに失われていた。西の丸にも延焼したが、かろうじて再建された。しかしこれもまた明治6年の失火により焼失してしまった。このため当時帝は紀伊藩邸跡の赤坂の仮御所を皇居としていた。

赤坂御所で留守居をしていた富小路とみのこうじ敬直ひろなおという侍従は、帝からの知らせに、目をむいて怒った。

「またしても薩長らが聖上をそそのかして、余計なことをしおる。天皇御幸の観菊の節会がそのような無様ぶざまなものであってよかろうか。」

観菊の節会、重陽節会、あるいは江戸時代になってからは五節句の一つとなった「重陽の節句」は、旧暦9月9日に行われていた宮中行事であったが、明治6年の旧暦廃止、また国事多難の折から、昨今はうやむやになっていたのである。余談になるが、観菊の節会は明治11年に「観菊会」となり、戦後は秋の「園遊会」として復活する。

富小路家は堂上家の中でも最下位の家格であったが、敬直は皇女和宮かずのみやの降嫁に献身し、江戸東下にも随従した働きが認められ、若干21歳で国事御用書記に加わり、正四位上に昇る。しかるに孝明帝を取り巻く反動的な諸卿らの不興を買い、岩倉具視らとともに失脚。剃髪蟄居を命ぜられるが、帝崩御の大赦で許され、維新後、子爵となる。

富小路敬直について知られていることは少ない。公武合体派、佐幕派と言われるが、おそらく彼はいかような思想信条の持ち主でもなかった。下級公家の習いで、皇族の執事役に徹し、かいがいしく仕える男であったろう。


富小路敬直は荷馬車に帝が普段からたしなんでいる赤ワインとグラス、チーズやケーキ、ハムなどの洋食、臣に与えるための賜杯、赤白の幔幕、そして女官らを積み込んで遠山邸に運んだ。敬直は手配の者らに菊の壇と酒席を幔幕で取り囲ませた。義輝はそのぎょうぎょうしさにますますしらけてしまう。


敬直は近衛隊長の義輝に杯を手渡す。黒い漆地に金泥で菊の御紋が描かれた、丸く平たいさかづきである。

「富小路殿。あいにく私は酒が飲めません。」

「馬鹿者。」敬直は義輝を面罵した。「みことのりうけたまわりては必ずつつしめ。」

承詔必謹。誰もが聞き覚えのある、聖徳太子17条憲法第3条冒頭の文句だ。

「おそれおおくも帝おんみずから賜りたる杯であるぞ。こんな名誉を断るやつがあるか。」

君命ではない。公家が、菊の御紋入りの杯で酒を飲めと言っているだけだ。義輝は腰に挿した手拭いで、敬直が飛ばした唾を拭いながら、そう思う。

このように、君命を笠に着て帝の臣下をはずかめるようなやからに国がまもれようか。この時代錯誤の、なまっちろい顔に白粉を上塗りして、歯に黒々と鉄漿かねを付けた、気持ち悪い公家を脳天から唐竹割りにしてやれたらどんなに気持ちよかろう。おそらく義輝の表情にはそのようなまがまがしい激昂げっこうあらわに見えたであろう。敬直にもその気配は知れたはずだ。

「義輝。口をつけるだけでかまわんから、受けなさい。」

そう言ったのはまたしても、義輝の隣に着座していた鉄舟であった。

「鉄太郎さん、私は近衛隊長です。私には責務があります。私の兵に酒を飲ませては、聖上に万一のことがあったとき、ご奉公ができません。」

義輝は山岡鉄舟を鉄太郎と呼ぶのが常であった。

敬直は義輝を無視して、次々に近衛兵らに杯を渡していく。続いて白い小袖に緋袴ひばかまを履いた女官らが、めいめいの杯に酒を注いでいく。それら女官の装いは帝の好みであった。

脳幹を麻痺させる酒精の香り。鼻をくすぐる香ばしい酒肴の薫香が、口腔に唾をためさせる。女官の衿や袖があたりに脂粉の匂いをふりまき、薄暮に篝火の炎がゆらめく。

兵らはうれしそうに、杯に満たされていく酒と白塗りに紅を引いた女官の顔をかわるがわるながめている。

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