3. 近衛長官比志島義輝

旧暦9月は新暦では11月。日は短く、夕暮れは寒い。暗くなる前にまずは急ぎ篝火かがりびかれる。

「聖上が御酒を御下賜なさる。近衛兵らを屋敷の庭へ入れ、宴席の用意をさせよ。」

鉄舟は近衛隊長の比志島ひしじま義輝よしてるにそう命じる。


義輝は不満そうに答えた。

「私の兵に酒を飲ませるのですか。では誰が聖上をお守りするのです。任務を遂行することこそ聖上に対する責務と心得ます。近衛兵は聖上の飲み仲間となるために集められたのではありません。酒宴を催されるのはよろしい。どうぞ侍従や女官らと歌会もなされよ。私どもは参加できません。うたげの果てるまで、おそばにはべりおまもりいたします。」


「まあまあまあまあ。」

同僚らが一斉に比志島義輝の肩を叩く。

「義輝。おまえの言いたいことは、よーくわかる。だがな、ここは俺に免じて言う通りにしろ。」

鉄舟がそう言うと、桜の紋が彫られた指揮刀のこじりを親指の腹で撫でさすりながら、義輝は語り出した。

「私の初陣は21才、血気盛んな頃、鳥羽伏見の戦いだった。そのまま戊辰戦争に突入。甲州、江戸、宇都宮と転戦して、白河の関で敵弾を受け負傷、横浜大病院で御雇おやとい外国人の医師に治療を受け、傷たちまちに癒えて、官軍に復帰し会津若松に攻め入った。四年前の越後士族擾乱じょうらん鎮撫にも出兵、3年前の政変でますます士族どもが日本各地に跳梁跋扈ちょうりょうばっこするようになり、おととし2月には佐賀の乱に発展、私は博多湾に敵前上陸して諸処に転戦して暴れ回った。佐賀では200名の同志が死んだ。同年5月、今度は風土病のマラリアが猖獗しょうけつを極める台湾に出兵、いわゆる征台の役だ。台湾南端の琅橋湾へ上陸するも、半年で500人がマラリアに罹って死んだ。やつらはみんな今、九段の招魂社に眠っている。私も高熱を出して、すんでのところで死ぬところだったが、現地のイギリス人医師にキニーネという特効薬を処方されて助かった。西洋人がアフリカやアジアを征服できたのはこの南米原産のキニーネのおかげだよ。

私は2度も西洋医術に命を救われた、横浜と、台湾で。

私はこれまで皇国鎮護の尖兵せんぺいとして休む間もなく国内外の戦場を駆け抜けてきた。

ところが台湾から帰朝した私にあてがわれた皇宮警備の任務は余りにも無事で平穏であった。天皇の周囲に侍る怠惰な公家連中との付き合い、宮中の退廃しきった日常茶飯、いちいち私には耐えがたいものだ。

私が任務に励むほどに私は周囲から浮いてしまうのだ。うかうかしていると、いつの間にやら付き人や幇間たいこもちのような真似までさせられてしまう。私が部下に宴の支度を命じる前から、やつらはすでに酒やごちそうのご相伴にあずかろうとそわそわし始める。私は先立った同志らの御霊みたまに申し訳がたたない。私はまだ31歳だ。まだまだ戦える。こんなところにくすぶっていたらはらわたが腐ってしまう。今すぐ戦場に戻りたい。」


軍刀のつかに手をかけて、ぶるぶると身を震わせる義輝の腕を、鉄舟は強く握りしめる。今は侍従を勤めていても、彼ももとは武士だ。神陰流、北辰一刀流を学んで江戸でも評判の剣士であった。義輝の気持ちは痛いほどわかる。徳川も、太平に馴れ武芸を忘れ、武人もののふの魂を忘れて滅亡したのだ。

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