観菊の宴

田中紀峰

1. 八千ぐさの 花のさかりを

遅い台風が関東をかすめたせいで3日ほどぐずついた空模様も、やっと晩秋らしい深い群青ぐんじょう色となった。ときおり切り裂くような風の音が耳を覆ったかと思うと、すずめの群れがやぶの中からさっと飛び立って、辺りをひとかたまりになって旋回し、また藪の中へと戻っていく。そんな吹きっさらしの中、枯れすすきに覆われた谷地やちの尾根づたいに騎乗の隊列が、寒そうな軍装で、サーベルをがちゃがちゃと鳴らしながら行進する。

小高い丘を登り詰めて、西の方を見やれば遠く、冠雪した富士の峰が頭を出し、丹沢山地に至るまで一面、白い茅萱ちがやの穂が波打っている。東を振りかえれば、江戸湊えどみなと海面うみづらにぶく光る。


「このような野原がよくも江戸近郊に残ったものだな。」


主君の問いに、鉄舟は、まだここが江戸と呼ばれていた、少年の頃を回想して笑みをこぼす。口ひげをたくわえた24歳のうら若き青年君主に供奉ぐぶする近衛兵や侍従武官はおおむね薩長土三藩出身の壮士らであったが、案内役はいつも、土地勘のある元幕臣の山岡鉄舟であった。

「私もここで鷹狩りをしました。ここは、旗本たちがカヤを刈ったり、鷹狩りをするために残しておいた、太田道灌の頃からそのままに残された、武蔵野のなごりなのです。」


古代、しばしば富士の火山灰に覆い尽くされた武蔵野は、本来このような痩せた草原であった。江戸時代には開拓され、松原や雑木林、畑などの沃野よくやとなった。いま、ススキやカヤが生い茂るままになっているところは、ほとんどない。

「そうか、これがまさしく、かの名高い武蔵野か。」

古来何度となく、和歌に詠まれた武蔵野を目の当たりに眺めて、帝は目を細める。


 八千ぐさの 花のさかりを 来てみれば 秋もはてなき 武蔵野の原


帝は和歌と乗馬が好きであった。帝は一つ、自ら馬上で歌を詠んでみないわけにはいかなかったのである。それは、明治維新というものがなければ生まれえない歌であった。

これは明治天皇が武蔵野を詠んだ最初期の歌である。明治9年11月12日のことであったという。帝はすかさず胸ポケットから1冊のメモ帳を取り出し、鉛筆でさらさらと書き取ると、またポケットにしまった。


慶応3年、当時欧州では王侯貴族が盛んに馬に乗っていた。しかるに日本では天皇は久しく馬には乗らなかった。

公卿や皇族は、もっぱら牛車に乗っていたものと、私たちは考えている。しかし桓武天皇や嵯峨天皇は騎馬で鷹狩りをしていたし、近衛司であった在原業平や藤原定家は騎馬で貴人に随身していたはずなのであり、またずっと後の鎌倉時代になっても、後鳥羽院は


 こまべて 打出うちいでの浜を 見渡せば 朝日に騒ぐ 志賀の浦波


などという猛々しい歌を詠んでいた。しかしその後鳥羽院が承久の乱に敗れて後は、騎馬や鷹狩りなどはもっぱら武家の嗜みとなって、天皇は御簾の奥深くに軟禁される存在となったのである。


王政復古。その象徴として、早速帝に馬に乗ってもらわねばと画策したその仕掛け人は、薩長ではなく徳川慶喜であり、もともと孝明天皇に献上された馬に「乗せられた」のであろうと思われる。江戸遷幸前、京都御所清涼殿前庭でのできごとであった。若き帝は後に岩倉具視らに諫められるほど乗馬に夢中になるのだが、この物語はまだ、帝が皇居のごく近辺を馴らし乗りしていた時期の話である。

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