テレビ放映戦国大名総選挙その75 織田信長と本願寺顕如

戦国時代における一向宗の歴史は戦国時代最強とされる織田信長との長い戦いの歴史でもありました。


贔屓目なしでいうなら、信長を最も苦しめ、最も時間を取らせ、最も多く戦ったのは一向宗なのかもしれません。


そういう見方をすると一向宗の指導者本願寺顕如は最高峰の能力を持った大名のような存在だったと言えるかもしれませんね。


しかし、戦いは決しました。

本願寺顕如は本拠地の石山から退去しました。

そして、信長が本能寺で死ぬとその後継者である豊臣秀吉と早急に和睦します。


もうこのころには本願寺および一向宗に戦う力も逆らう気力もありませんでした。

恨みが蓄積していた信長と違い秀吉は彼らに対して比較的寛容でした。

ただし、比較対象が信長である点を十分留意する必要があります。


秀吉は顕如をいつも目が届く場所に、しかもいつでも殺せるような環境で利用しました。

一応、体裁として朝廷から准三宮の宣下を受け、権威としての箔はつけてもらいました。


しかし、一向宗の扱いはボロ雑巾のようなもので、大阪城の築城などの労役や街の整備にかりだされ、顕如自身は九州征伐に同行するように命じられるという道具扱いでした。


もうこの時期には一向宗のため、あるいは本願寺顕如のために命を捨てて戦う人達は激減していたのです。


その後は秀吉の顔色をうかがう生活が続いたようです。

ある時に本願寺に反秀吉の人間が逃げてきたときにそれをかくまったということで秀吉から叱責を蒙り、身内が自害を命じられるということもありました。


顕如が没すると、石山本願寺退去時に信長への対応をめぐって和睦派の顕如と意見を異にした強硬派の長男教如に替えて、三男の准如が12世宗主に立てられることになった。


教団内部での対立が進行する中、徳川家康により京師に新たな寺地が寄進されたことを受けて、教如と彼を支持する勢力は慶長7年(1602年)に独立して東本願寺を設立した。こうして本願寺は准如の西本願寺と教如の東本願寺とに分裂することになった。


こうして、一向宗は大きく二つに分裂そして時が経つにつれ、権力が安定していくにしたがって反抗的な集団ではなく、政治的な関与に関しても穏便な勢力となりました。


ただし、一部の地域では教えを禁止されたりしています。


ご存じの通り現代でも浄土真宗は日本で存在しています。

しかし、それはあくまで宗教、心のよりどころ、あるいは葬式やお墓の管理といった形で存在し、俗事である政治権力の指導者としてではありません。


そして、その宗派も様々な分派が生まれ、それぞれの地域でひっそりと共存するようになったのです。


さて、次回はこの信長と一向宗の一連の流れを現代に当てはめてシミュレートしたいと思います。


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