テレビ放映戦国大名総選挙その2 立花宗茂
さて、前回のお話では島津は人気のないいらない子、そんな不安を抱えながら総選挙の結果を注視したところで終わりました。
さて、14位に注目です。
ここで登場したのが「立花宗茂」です。
簡単に説明しますと、戦国末期九州の福岡県柳川を領地とした武将。
そして豊臣秀吉が諸大名の前で宗茂を、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評し、その武将としての器量を高く褒め称えた」という話が伝わっています。
「鎮西無双」というあだなもあり、とにかく強いイメージのある武将です。
しかし、立花宗茂を良く知る人たちはその武勇だけでなく、その人間性を高く評価します。
例えば、彼は裏切らない男らしい人物として当時同じ時代に生きた大名や武将達から高く評価されています。
また情に厚く、部下たちからの信頼も厚い人物でもあり、その結束が立花家を無双問わしめる原動力となりました。
以前も紹介しましたが、彼は島津義弘とも深い信頼の感情で結ばれていました。
関ヶ原敗走後の義弘と合流して九州までともに支えながら帰国をしました。
この時、もし立花が島津を討っていたら島津家は窮地に立たされたことでしょう。
しかし、立花宗茂は盟約を守りました。
彼と島津との出会いが彼の父高橋紹運との死闘から始まっていることを考えると実に義理堅く、また遺恨を水に流す大器を備えた人物であるといっていいでしょう。
一説にはこのような経緯があったにも関わらず、島津義弘と立花宗茂の関係が親子のようだったという話が流れるほどの信頼関係があったようです。
そうした若き宗茂も年を取り年長者となります。
彼は戦国時代最後の名将として江戸時代に生きることになります。
関ヶ原の戦い後、領国柳川に戻り、徳川方についた九州の大名と戦いましたが、時勢には抗えず降伏します。
そして一時的に領地は没収されて貧しい生活を送ったという話もあります。
しかし、彼の才能を見込んであの徳川家康が親衛隊長という役割で彼を登用します。
そして、その息子で将軍であった秀忠の御伽衆(おとぎしゅう)、つまり相談役となり1万石の大名に復帰しました。
そして、大阪での豊臣家と徳川家の最後の決戦では秀忠の軍師として、味方が感嘆するような優れた助言や献策を多く行いました。
その功績が卓越していたのでしょうか。
幕府から旧領の筑後柳川10万9,200石を与えられ、関ヶ原に西軍として参戦し一度改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名となるという奇跡的な復活を果たしました。
さて、長くなりましたのでこの章はここで一休みですが立花宗茂についてはまだお話したい点がありますので、次の章でさらに触れたいと思います。
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