弱気を助ける日新斎の言葉、その歴史的背景

『ひとり身を あはれとおもへ物ごとに 民にはゆるす心あるべし』たよる者がない老人、孤児、寡婦に対しては情けをかけて一層いたわれ。人に対しては仁慈の心で寛大に接しなさい。【島津日新斎いろは歌 - ひ】


以前のいろは歌紹介でも触れた点ですが、島津日新斎の人生を振り返るとこの言葉がどれだけ重いものか想像しやすいと思います。


彼が若きときに父と祖父が不幸な死に方をし、そして母が家の主になりました。

彼の視点では身内に老人はなく、母親は寡婦(ひとり身の女性)、自分は孤児のような境遇を過ごしてきました。


そして彼はそうした経験を正面から受け止めて、後に薩摩の、そして島津の実力者となった時にもその経験からこのような教えを残しました。


彼の場合、その壮絶な若い時期の経験から、家族愛というよりも一族愛、そして領民全体を愛していたように感じられます。

少し島津を知る人であれば、島津が武門の名門で長い間薩摩を中心に権力を握っていたことは常識かもしれません。


しかし、一般的にはこれだけ長い間権力を握っていると、まつりごとが面倒くさくなって部下に任せてしまい、自分は上でのうのうとしていることが多々あります。

それは鎌倉の北条得宗家や江戸幕府後期の徳川家などいくらでも例があります。


しかし、島津は幕末までこの権力が衰えませんでした。

その大きな要素としてこの島津日新斎の教えを歴代藩主と領民達がコンセンサスとしていたというのがあると思います。


日新斎は実力者ではあっても当主ではないことは何度か触れてきました。

弱い立場から出発した彼は、その後も野心のために突っ走ることはなく、島津宗家とその領民の両方を立てながら行動しています。


ある時期には島津宗家に対して、自分は一定の領土を保証してもらえば宗家をたて、水魚の交わりのように親密になりたいと提案をしたと伝わっています。

ご存じの通り水魚の交わりは三国志の劉備と諸葛亮の間の親密できちんと上下を踏まえた関係です。


彼はあくまで自分の立場を一番にしたくないとする強い意志を感じます。

なので、彼は部下の立場というもの、あるいは身分の下の立場のことも経験上よく理解していました。


いろは歌の中には間違った事をしたときのリカバリー方法や迷った時のアドバイスについても書かれています。

このあたりの表現もアドバイスの形ではありますが、目線が上からではないのが特徴です。


しかも僧侶のような理想論ではなく、行動や心構えといった具体的な判断ができるようなアプローチです。

しかも、命令っぽくないので説教臭さが薄められてます。


現代でもそれほど感じない程度ですから、戦国時代の人々からするとかなりマイルドに感じたのではと思います。

次の章ではさらに深く掘り下げていきたいと思います。






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