島津日新斎の教育とその成果

注意 島津忠良=島津日新斎=島津日新公ですので混乱なく読み進めてください。


薩摩は貧しい国です。

火山の影響もあってか、あるいは地質が原因かとにかく米が多く取れない地域が多い地域だったようです。


いわゆるシラス台地が領内の半分を占めていてそこでは米は取れないため、難儀したのは想像に難くありません。


有名なサツマイモについても最も早くても1600年前後からその存在を知るという具合でしたから、当然日新斎の時代にはサツマイモはありませんでした。

そういうわけで、当時の薩摩は貧しいことが宿命づけられた土地でした。


そんなハンデを負った状態でしたが、前の章で触れた通り琉球との貿易や橋や城下町整備などのインフラ、養蚕を推奨しました。

しかし、彼が最も力をいれたと考えられるのは「教育」でした。


しかも、その対象は自分の息子や孫だけではなく領民全体を対象としていました。

武田信玄の言葉として伝わってきた、「人は城、人は石垣、人は堀」日新斎は薩摩の自分の領地の民全体にこの考えを植え付けようとしたのではと思います。


島津日新公いろは歌の解説は「長期連載予定 島津いろは歌と歴史」の章から順次紹介していますのでより細かい解説を知りたい方はそちらをご覧ください。

とにかく領内の人間、それも身分を問わずすべての人を立派な人間にするように彼は熱意を込めて教えました。


まず、いろは歌これは以前も紹介しましたが覚えやすくするためになるべくわかりやすい言葉で書いています。

読む方はいいですが、書く方は大変です。


自分の伝えたい言葉を簡単にしかもいろはの順に紹介していくわけですから文才がないとまずできません。

しかもその内容は儒教と仏教と神道の勉強をしたうえでその良いところを抽出したものというとても高度なものです。


それでも彼はその難しい難題を克服していろは歌を完成させます。

その内容を見ると行うのが難しいことは書いていますが、難しい意味の言葉はなるべく避けていたのではと思うほど内容を読むのはやさしいものでした。


その内容は道徳的であまり法家のような法律的な用語も厳しい言葉遣いも少なく、命令というよりも昔の道徳の教科書といった趣でした。

また、この内容がエリート向けではないことは、悪いことをした時の対処の仕方や、今の境遇が悪い人に対して挽回する方法を教えている点からも明らかです。


とにかく人を救うという思いがいろは歌の中には何か所も強調されています。

薩摩の軍令は厳しいといいますが、いろは歌によって安定した社会を守るために領民達も納得して厳しくしたと考えるとわたしはなるほどと納得してしまいます。

長くなりましたので続きは次の章で語りたいと思います。









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