島津の混乱と忠良の台頭
織田信長をご存じの方は彼が尾張の国の責任者である守護ではなく、その代理の守護代でもない、奉行の家だったというのは常識かもしれません。
今風に言うなら支社長でも専務でもなく、部長といった感じでしょうか。
それが、経済力と軍事力を背景にどんどんと勢力を広げていったことは皆様もご存じのことと思います。
実は島津家も多少の違いはありますが、織田家と似たようなところもあります。
例えば、島津忠良(日新斎)が若いころ、島津宗家は跡取りを次々と失い、まとめる力のある当主がいない状態になりました。
そこで、当時の宗家であった島津勝久は親戚で実力者の島津実久に助力を求めました。
しかし実久は自分を跡継ぎにするように迫ったため、争いとなりついには宗家である勝久を追い出してしまいました。
追い出された勝久は忠良とその息子である貴久の力を借りていったんは勢力を回復しますが、今度は忠良達と折り合いが合わずに協力関係は壊れました。
その後、勝久は大友氏の支配する豊後の国に逃亡しました。
残った実久に対して、はじめのうち忠良達は穏便な和平案を提示していましたが実久側がそれを拒否し争いとなりました。
そして、その戦いは忠良側の勝利で終わることになります。
今の時点での見解では勝久から実久、そして忠良に権力が移っていったという解釈が優勢なようです。
島津一族の中の話ではありますが、結局は実力のあった忠良とその息子の貴久の手に薩摩は委ねられたということになります。
少し細かい点ですが補足したいと思います。
忠兼(勝久のこと)は元服した貴久に守護職を譲り忠良にその後見を依頼、自らは出家して伊作に隠居した。これを見届けた忠良は33歳で剃髪して愚谷軒日新斎と号し、以後貴久を輔佐して三州統一に邁進することになる。
資料にはこのように記されています。
実は忠良自身は33歳という若さで出家していて、島津の当主にはならず、あくまで分家として息子を補佐する形を取りました。
実権は忠良が持っていたと思われますが、組織上島津の当主は息子の貴久であり、その後その長男である義久に受け継がれるという形になります。
島津宗家の相次ぐ早世とその後の混乱を見て、自分の家族の中では争いを起こさないように、そして強い体制を築きたいたいという忠良の深謀遠慮だったのかもしれません。
次は忠良改め日新斎がどのような政治を行ったのかなどを紹介したいと思います。
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