第214話 矛盾 明治薩摩といろはの「め」

回(めぐ)りては わが身にこそは 仕えけれ 先祖の祭り 忠孝の道


現代語訳 

先祖を祭るということは、自分の死後に子孫たちが、先祖として自分を祭ってくれることにもなります。

それはとりもなおさず、祖国母国に真心を尽くし、両親を敬い尽くすことにも通じるのです。


「矛盾」という言葉があります。

最恐の矛で最強の盾を攻撃したらどちらが勝つかという話です。

今回の話は正確にはその例えとは異なりますが、ある種似た趣(おもむき)があるので紹介したいと思います。


ここまで、「島津日新斎いろは歌」が薩摩の教育や方針にいかに影響し、大きな効果があったかを説明しました。

また、今回のいろは歌も含め、仏教の教えの影響を強く受けていることも説明してきました。


さらに補足すると、島津日新斎の死後、島津忠良の菩提寺として日新寺(じっしんじ)が建てられ、島津家の厚い尊崇を受けたとされます。


さて、時は下り、明治時代、そうあの西郷隆盛や大久保利通達薩摩藩士が活躍した時代です。

教科書で学んだ人も多いと思いますが、「廃仏毀釈」、(はいぶつきしやく)によってこのお寺は廃寺となりました。


さんざん説明した通り、薩摩最強の精神的師範である「島津日新斎いろは歌」の教えをこれまた当時最強だった薩摩出身の維新志士たちが破ったという事態が起こります。


私が調べた範囲では、廃仏毀釈は日本全国で行われましたが、最も徹底して仏教の排除をしたのは薩摩藩だったと記録にあります。

つまり、長州や他の勢力から無理を押し付けられたのではなく、当時の薩摩の首脳たちが自らの意思で行ったことは明白です。


この件を補足すると、藩内寺院1616寺すべてが消え、僧侶2964人すべてが還俗させられたそうです。

この出来事についてはいろいろな留意事項があります。


例えば、日本政府は「神仏分離」を目標としており、弾圧はむしろ当時の神道側の思惑と地元の住人の感情によるものという説。

豊臣秀吉の「刀狩」と同じで銅や鉄などの資源を回収するのが目的であるという説。

地元の反対が思ったより小さかったのでノリで行った説。


色々ありますが、一つ考えたいと思うのはもし深く曹洞宗に帰依した日新斎がこの様を見たらどう捉えたかということです。

時代の違いとして受け入れる可能性もゼロではないですが、私個人としては激怒したのではないかと思います。


いずれにしても、幕末に力を蓄え、幕府に勝利し明治維新において主要な役割を果たし、優れた人材を多く集めた精強薩摩がその後どうなったのか、見てみましょう。

薩摩は西郷隆盛と大久保利通が政策上の違いから争い、西郷と彼を慕う薩摩志士たちは鹿児島に帰ります。


やがて、西郷たちは軍備を整え新政府と戦うことになりました。(西南戦争)

戦いは苛烈を極め、薩摩領内は荒れることとなりました。

多くの薩摩の人が死に、経済的にも大きく打撃を受けました。


人と人のつながりも当然弱くなったでしょうし、現代に至るまで少子化や過疎という形で尾をひいています。


幕末から登り調子だった薩摩はこの戦いを境に一気に衰弱していきました。

もちろん、直接的には廃仏毀釈と薩摩の没落は関係がありません。


ただ、先祖代々の繋がりを大事にするように教え、その継続が祖国や両親といった大きな繋がりと小さな繋がりに関わることを指摘したことを考えると複雑な思いがします。


「罰当たり」とは言いませんが、何か現世との縁(えにし)を考えるとやはり複雑な思いがするのです。

とても難しい話であると個人的には思いましたが、皆様はどのような感想をお持ちになったでしょうか。







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る