第177話 徳川家康といろはの「そ」

誹(そし)るにも 二つあるべし 大方は 主人の為に なるものと知れ


現代語訳

人のことを非難するにも二通りあるのです。

人を悪く言う悪口と。相手の非をいさめる諌言というものです。

そのためいずれの場合もまず心で受け止め、自分の為になるものと考え、反省するようにした方がよいでしょう。


戦国三傑の中で最後まで勝ち残ったのは徳川家康でした。

要因はいろいろありますが、大きな要因の一つに「家康と三河武士の強い結束」があります。


織田信長は家臣の明智光秀に謀反で殺され、豊臣秀吉は死後子飼いの武将が二つの勢力に分かれ、最後は秀頼が自害したのに対し、徳川家は大きなまとまりとしての家臣団が崩れず、太平の世を築きました。


ですが、三河武士は確かに忠誠心熱く結束も強かったのですが、一方で「面倒くさい」という特質もありました。

とにかく、自己主張が激しく、主君の家康に対しても言いたいことは遠慮なく言い、納得がいかないと取っ組み合いのけんかになることもあったそうです。(笑)


普通主君と家臣の関係は上下の形であり、徳川家康自身「主君に諫言するということは、戦場での働きよりも勇気のいることだ」とその重要性とリスクを高く評価していました。


こうして家康について調べてみると、彼と三河武士の強い結束の源には家康が家臣の諌言を積極的に聞く姿勢を持っていたこと、そしてそれを家臣たちがよく知っていたことが主要因であったという結論に達します。


家臣達がめんどくさい諌言をしても家康はそれを受け止める姿勢を常に意識していたと言えるでしょう。

ここで疑問が湧きます。

彼がそのような考えに至ったのはなぜか?


もちろん島津日新斎いろは歌から影響を受けた可能性もゼロではありませんが別の要因があるでしょう。

これは私の推測ですが、家康は小さいころ今川の人質として大原雪斎という知識人のもと、勉強をしていました。


その時に、以前の章で紹介した中国の統一王朝「唐」の太宗について書かれた「貞観政要」という本が家康の諌言に対する高い意識を植え付けたのではと推察します。

この本の中で、太宗(李世民)が、優秀な重臣や官僚集めて諌言を厭わなかったという記録が数多くのせられています。


資料を調べてみると、家康の晩年に貞観政要を学んだとの記述がありますが、私個人としてはもっと早く、上記に書いたように若いときにすでに知識を得ていたのではと思います。


さて、読者の皆様には天下統一後の家康の次のエピソードを見てもらいそしていろは歌の「そ」の現代語訳を見比べてほしいと思います。


家康が天下を取った後の京都二条城でのことである。所司代の板倉勝重が、最近、落書が多いので犯人の捜査をすると報告した。


家康は「放っておけ。それよりどんなことが書いであるか見たい」といって、一読した。そして「落書を禁じるな。どうにもならないものもあるが、予のためになるものもある」といって、取り締まらせなかった。


どうでしょうか、私から見るとうり二つのように同じ趣旨の文章に見えます。

悪口を禁止しないこと、そしるものも2つあること、そして自分の為になると受け入れること。


皆様はどのように思われたでしょうか。

次のいろは歌は「つ」ですが、徳川家康様に続投していただきます。

お楽しみに。



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