第163話 光武帝といろはの「り」

私事で恐縮ですが、今回登場の光武帝(劉秀)は私の好きな歴史人物の中でもトップクラスに入る人物です。

三国志の英雄、曹操、劉備、諸葛亮、孫権、袁紹その他多くの人物が正史三国志(中国の歴史書)で彼の業績を引用したり、彼の行動をお手本に政戦両略を行いました。


それと豆知識ですが、前の章で紹介しました楠木正成の時代、そして彼の主君であった後醍醐天皇は天下を掌握したとき年号を「建武」としましたが、この年号は光武帝の時代にも用いられてきました。

約1300年ほどでしょうか、時代を経て、場所を変え年号が復活したことになります。


さて、本題に入りましょう。

劉秀が青年のころ、漢(西漢)という中国の統一国家がありました。

しかし、外戚の王莽という人物が国を乗っ取り「新」という国を建てました。


初めのうちはきれいごとの理想主義と言論統制による体制批判の封じ込めで人気のあった王莽でしたが、すぐにぼろが出ます。

彼の改革は理想論で実際にはできないことや始めると今までの仕組みが壊れて経済がぼろぼろになるような失敗ばかりが起きました。


極めつけの失敗は黄河の治水でした。

このころ中国の北部で大雨があり、洪水が発生しました。

それに対して王莽たちは洪水の被害をなかったことにする、つまり隠ぺいを図りました。


その結果中国北東部を中心に大飢饉が発生し、農民の大多数が賊徒となり、人が人を食するのが日常茶飯事という地獄のような世界が出現しました。

もうこうなると隠ぺいは通用しません。


「新」は崩壊し大きく膨れ上がり全国に発生した賊と地元の豪族たちとの非常な戦いが頻繁におきることとなります。


こうしたヒャッハーな状態の中、当時豪族のお坊ちゃまだった劉秀はどのような行動に出たのでしょうか。

薬に逃げたでしょうか、それとも豪族の家柄を利用して私腹を肥やしていたでしょうか。


いいえ、彼は反乱軍としてまず「新」と戦い、新が滅亡した後は自分の支配地域が飢えないように優しい内政を行いました。

また、先ほど述べた飢えた農民の賊徒には必要ならば食事を提供し、どうしても賊の癖が抜けないものには兵として雇い生活を保障しました。


それでも体制側になじまないものには密告という制度を使い、賊に同調しない者たちを許す代わりに賊徒を成敗していきました。

こうした柔軟織り交ぜた政治によって無法と無秩序のるつぼであった中国は後漢(東漢)という新しい国家のもと再び成長していくことになります。


楠木正成も光武帝(劉秀)も理も法も通じない不安定な世の中で理性を持って行動しました。

やがて、治安は徐々に回復し太平の世を迎えることになります。


さて、いろは歌「り」の締めはサラディンというイスラム世界の英雄の話を紹介したいと思います。










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