四、グリモワール
お父さまの書斎を出たあと私室へと移動した。そしてビリビリに破れたドレスを脱いでシンプルな青色のワンピースを身に着けた。
部屋に置いてあった私物をトランクに詰めていく。大事なものはすでに新居へと運んでいる。私は手荷物程度のトランクを一つだけ持ってバルコニーへ出た。
「静かな夜……」
手摺りに手を置いて月のない星空を仰いだ。そしてそっと目を閉じて夜の空気の匂いを嗅ぐ。ひんやりとした夜風が傷に染みる。
女性相手に容赦のない仕打ちをした魔道士アランと騎士トリスタンのことを不覚にも思い出して虫唾が走る。目を開けて痛みの残る腕を見ると、トリスタンに掴まれた痕が内出血になって残っている。
「痕になってるじゃない……。やりたい放題やってくれちゃって」
夜会では、あえて軽い怪我を負うように防御結界を最小限に留めておいた。レオナール殿下と側近たち、そしてミレーヌに勝利を確信させるためだ。
殿下と側近たちはミレーヌを妄信して騙されていたのか。それとも最初から徒党を組んで、計画的に私を陥れようとしたのか。女性に対するあの扱いを思い出すと、いずれにせよどうしようもないほど性根が腐っているのは間違いない。
私は左手を胸の辺りの高さに掲げて掌を上に向けた。
「グリモワール」
私の掌の上に眩い黄金の光とともに漆黒のグリモワール……黒の書が現れた。黒の書は全体が闇のような漆黒で、表紙と背の部分に金色の文字が刻まれている。この国の文字ではない古代の魔法国で使われていた文字だ。そして表紙には『真理の書』と書かれてある。
黒の書はペラペラとページが捲れて白い光を放つ。私の全身に及ぶ裂傷が、白い光に包まれて見る見るうちに塞がっていく。そして治癒が完了すると同時に、黒の書は掌の中に吸い込まれるように消えた。
「黒の書が役に立たない? フフッ」
ミレーヌが宿す白の書は治癒と防御のグリモワール、赤の書は魔術のグリモワール、青の書は召喚のグリモワール……そして全てのグリモワールを統べるのが黒の書、真のグリモワールだ。
黒の書の力は黒以外のグリモワールを遥かに凌駕する。黒の書の持ち主こそが正当なグリモワールの継承者だ。このことを知っているのは黒持ちだったお母さまと私だけ。
そしてグリモワールを行使する際には己の体内にある魔力を消費する。ミレーヌは恐らく一度に数人を治癒するほどの魔力しか持たないだろう。そのことを自覚しているのかは分からないけれど。
「ミレーヌが継承者として名乗り出てくれたのは僥倖だったわ。すぐにばれないといいけど……」
一方、私の魔力は桁外れだ。この国全てに結界を張っても魔力切れを起こすことはないだろう。召喚し得る全ての幻獣を召喚したとしてもだ。
代々黒持ちは膨大な魔力を持って生まれるという。そしてお母さまが亡くなる前には、私の魔力は黒持ちだったお母さまの魔力をも凌駕していた。
もしグリモワールの真実と私の魔力のことを誰かに知られてしまえば、間違いなく国に囚われてしまう。だからこそずっと無能な役立たずを装ってきたのだ。
「国に囚われるなんてまっぴらだわ」
お母さまが亡くなった八才のときから地味に装い振る舞って、黒の書の力を他人の目に触れさせないようにしてきた。そしてお母さまが亡くなったあとすぐに殿下との婚約が決まった。
兎に角私は極力目立たないようにしてきた。なぜなら身近にお母さまを殺した首謀者が潜んでいるかもしれないと考えているからだ。
「あのときから誰も信用できなくなっていたのかも……」
殿下とミレーヌの仲睦まじい様子を初めて見たのは十二才のときだった。そのときから冷静に他人を観察するようになった。
そして殿下からは距離を取った。友人も作らず貴族たちとの交流も控えた。そうしてあえて私は孤立無援の状況を作り上げたのだ。
「ブリュノワの王侯貴族はもう駄目ね」
王太子、その側近、そしてミレーヌ……。彼らの愚行を目にしながら、諫めるどころか面白可笑しく噂を立てる貴族の令息や令嬢たち。傀儡の王を利用して甘い汁を吸う国の重鎮たち。
ブリュノワ王国の王侯貴族は腐りきっている。私はこのままグリモワールの力をブリュノワ王国にもたらしていいものだろうかと考えるようになった。
こうして王家のほうから私を捨てさせるように仕向けた。そしてようやく何のしがらみもなくなった。
私は今日を限りにこの国から離れる。
「これは彼らが望んだ結末……」
ブリュノワの王侯貴族……彼らがもう少し自らの果たすべき義務を理解していたならば。自らの特権に溺れていなければ。……私はこの国を離れようとは思わなかっただろう。
「これからは自由に動ける……」
私にはどうしても成し遂げたい目的がある。そのためにはこの国の貴族社会から抜け出さなければならなかった。
そして全てが計画通りに進んだ。あとは新しい住まいへと向かうのみだ。
先ほどまで着用していたボロボロのドレスが置いてある部屋の中へ目を向ける。
「最後の夜会だと思って奮発したのに……。鬼畜すぎるでしょ」
私は再び掌の上にグリモワールを出した。
「グリモワールよ、我が身に纏え」
私の唱えとともに黒の書が掌から離れて体の周りをぐるぐると回り出す。黒の書の軌道がなす漆黒の帯は、私の全身に巻きついて深い闇のような漆黒のドレスへと変化した。
体の線を表す妖艶な闇色のドレスを身に纏った私は、傍から見ればまさに『呪われた魔女』といったところだろう。ミレーヌも上手い表現をするものだ。
「ペガサス……。私のもとへ来て」
私の願いに応じて漆黒のドレスが青い光を纏う。その青い光が目の前に集まり、光の中から白い翼の生えた大きな白馬……幻獣ペガサスが現れた。
絹糸のような金色の
私は完全に実体化したペガサスの首を撫でながら優しく話しかける。
「さあ、一緒に新居へ行きましょう。でも目立つから姿を消しましょうね」
「ブルルル……」
ペガサスが気持ちよさそうに鼻を鳴らして頬に擦り寄ってきた。
「フフ、可愛い……」
私は体を魔法で浮かせてペガサスに跨ったあと、私とペガサスに不可視状態にする魔法をかけた。そして透明になった私たちは、ともに夜空の闇へと駆け上った。
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