第三章 南海の竜

36話 五葉松の庭

 二木ふたき倫太郎は、ものごころついた頃から母とふたりだった。その母も十になる前に、ある日突然いなくなった。


 その頃住んでいたのは大きな屋敷で、無数の部屋と、庭には大きな池。そして池の周りには、大きな松の木がたくさん植えられていた。丸く刈られた松で幾本かは池へ張り出し、幹を曲げ水面みなもに触れそうなものまである。五葉松というのだと、母が教えてくれた。

 瓢箪のかたちの池にはやはり大きな石橋がかかり、倫太郎はよく真ん中から石を落としては、母に叱られていた。

「何ゆえ魚をいたぶるのです」

 おのれはただ、水に沈む石の音が好きだった。しかし、たしかに人影に餌を求めて集まる魚を驚かせてもいた。


「もうしわけありません。そこまで考えがいたりませんでした」

 母はにっこり笑って抱きしめてくれた。

「倫太郎、おまえは強い子です。弱いものこそ大事にしてください。それがおまえをもっと強くします」

「はい、母上」


 母は美しく、凛々しいひとだった。打掛を脱ぎ捨てて、屋敷の庭を共に走ったこともあった。剣術の稽古に木剣を握ったり、息を殺して隠れ鬼で遊んだ。母に勝てることはなかったが、昨日より今日、今日より明日と、小さなことでも褒め、倫太郎を抱きしめてくれた。

 倫太郎にとって、母がこの世のすべてだった。

 その母が、何も言わずに突然いなくなったのだ。




 ひとりになって程なく、倫太郎はいかめしい顔をした男に、引っ越すのだと教えられた。以前から時折、母に会いに来ていた男だ。

 それまで住んでいた屋敷からひとり移り、知らぬ女中や大人たちに囲まれて暮らすようになった。

 門には警護の侍が増え、屋敷の所々にも影のような男たちが控えていた。

 母の行方を訊いてはいけないと、子供ごころに悟っていた。


 新しい屋敷にも庭があった。以前ほどではないが、同じ松の木が一本、池の上に枝を張り出していた。

 倫太郎は、よくその枝に登った。無論、見つかれば諭されるのだが、約束する度に破った。

 枝に登ると塀の外が見える。母といた屋敷がどちらになるのかわからなかったが、しかし、塀の中より母に近い。

 倫太郎は枝に登り、外を見渡し、あの向こうに何があるのか、いつも寂しさとともに胸を躍らせていた。


「落ちるぞ」

 ある日突然、下から声をかけられ手を離した。

 幸い池の上で、全身ずぶ濡れになったものの怪我はない。それよりも泳げぬ倫太郎は、水の中で死ぬ思いをした。

 怖いというより、浮かべぬもどかしさと息の苦しさにもがき、なによりも陽を反射して輝く水に魅了されていた。


「馬鹿者! 息をしろ!」

 救いあげられ胸を押され、咳き込みながらも助けてくれた男へ笑いかけた。丁度お天道様の陰になって顔が見えない。大きな影の、まるで松のような人だと思った。

 男は驚いた顔で、そのまま倫太郎を胸に抱きしめる。


「気を付けろ。命はひとつだぞ」

「きれいでした」

 まだ咳き込みながら、倫太郎は言った。

「水のなかはとてもきれいでした。驚いたなあ」

 男は一瞬押し黙り、次いで声を上げて笑い出した。

「さすが悠女ゆめの子だ」

「母上をご存知ですか?」


 その時、ようやく屋敷の方から何人もの家臣やら女中やらが駆け寄って来た。

「大事ない。倫太郎は無事だ」

「申し訳ありませぬ」

 口々の謝罪の言葉のなか、倫太郎は女中たちに託された。


 その日の午後いっぱい、男がともに遊んでくれた。

 学問の進み具合を尋ね、剣術は好きかと尋ね、最後に肩車をして陽の沈む方を指差した。

「おまえの母はあちらにいる。朝晩、話しかけるとよい。俺もそうしている」

「はい」

 あなたは誰ですかと、やはり尋ねてはいけないような気がした。

 それでも、もしかしたら──と思う。この人こそおのれの父ではないか。そう思えてならなかった。




 それからひと月もせず、おのれより少し年上の子供がやって来た。

 今日から寝食を共にしながら学び、剣術を習う家臣だと言われた。

 その家臣は、下げていた頭を上げると女中たちのような白い肌と、きつい武者人形のような目をしていた。

「この者は、安藤申之介こうのすけと申します。本日より、若君の側近くお仕えいたします」


 加納という名のいかめしい男は、強い声で言い渡した。

「申之介、心して若君にお仕え申せ」

「はい」

 しかし、倫太郎を見上げる目は、何かに怒ったように険しかった。

 加納が下り二人きりになると、倫太郎はどうしたものかと申之介を誘う。


「庭へ出ませんか。案内します」

「はい、若君」

 申之介は素直に従うものの、怒った様子に変わりはない。

 築山の上に上り人の目が絶えたとき、申之介は倫太郎の手を掴んで引っ張った。


「あのな、俺はおまえの家来じゃないからな」

 倫太郎も、家来という言葉はしっくりこなかった。最近習ったよい言葉を思い出す。

「では、とも、ではどうですか? わたしは友がいいです」

 申之介は驚いたように目を丸くした。それが次第に笑みになる。笑うと、とても優しい顔だった。


「わかった。俺とおまえは友だ。家来じゃない」

「はい、友です」

 倫太郎にとって生涯の友となる、安藤申之介との出会いであった。




 それから、しばらく何事もなく日々は過ぎていった。

 申之介と学び、稽古し、遊ぶ毎日だ。

 ふと気づくと、池から助けてくれた男の顔を思い出せなくなっていた。

 それでも倫太郎は朝晩西に向かい、母へ向かって祈ることを忘れなかった。




(続く)


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