26話 糸口を探す
一方、神田紺屋町のうなぎ長屋である。
佐々凛と
長屋全体で三十戸余り。病人がでたのは五世帯。
表長屋で小間物屋を営む佐太郎と、勝手口の向かい、裏長屋の付け木売りの五平、あと三軒は点々と奥へ行き、独り者の大工が一軒。子供が二人、三人の夫婦ものが二軒。これは通いの職人のようで、寝込んでいるのは針仕事をしている母親の方だった。父親は小さい子供の世話をしながら、心配そうに応じてくれた。
「何か気になることはあったか?」
「ない」
ひと通り回ってから、ふたりは借りた空き部屋で書き取った内容を突き合わせていた。
「食べたもの、飲んだもの、行った場所でなにをしていたかを聞いても重なるものがない。第一、一緒に暮らしているのに、一人だけなどおかしい」
幸い、最初の病人であった小間物屋の佐太郎は回復しつつある。
「妙なはやり風か、鼠よけの毒でも食っちまったのか」
お凛が睨む。冗談を言っている場合ではない。
「森島四郎が、近所の長屋でも同じような病人がでていると言っていた」
「おや」
口調の変化に、真慧が片眉を器用に上げた。
「天敵とは休戦か?」
「馬鹿いうな。あいつの
「それだけか?」
お凛は真慧を睨みつけてから、やがてほっと肩から力を抜いた。
「焦ったんだ。あたしの不注意から、倫太郎に流行り病をうつしたかと思った」
「馬鹿」
軽く混ぜ返し、
「あいつは、石見銀山(砒素毒の殺鼠剤)舐めても死なねえよ。餓鬼の頃、散々な目に遭っても大丈夫だったろう?」
「おまえもな」
お凛は憎々しげに言い、ふと口を閉じた。
「毒、か」
はっと顔を上げると、履物を突っ掛ける。飛びつくように戸を開けた。逆光が眩しい。
「おい! どこへ行く!」
「ちょっと出てくる。小川先生には、おまえから言っておいてくれ!」
「おい、待て! 俺だって……」
言い切らぬうちに、溝板を踏む音が遠ざかっていった。
「まったく、あいつはつむじ風だな。そもそも俺を何だと思ってんだか」
短く刈り込んだ頭を撫で、ため息をつきながら書きつけだの、仮眠用の夜具などを片付け始める。
「お坊さま」
可愛らしい声に振り返ると、戸口に近所の子供たちが群がっていた。
「なんだ」
不機嫌に問い返すが、十人近い子供たちが期待に瞳を輝かせ、無言で待っている。
しばらく睨みあってから、真慧はニヤリと笑いかける。子供たちがクスクスと笑う。
「今日は俺が作ってやる。いいか、
なんだかわからないが、わっと歓声が上がった。
真慧は近所で仕入れた道具とザラメ、卵を出して、
前の住人は、きれいに灰掻きもしていったようだ。
鼻歌まじりの上機嫌で水を汲み、鍋をかけ、
「今日ね、梅乃さん、来られないって、おっかさんが」
花六軒長屋の、小川陽堂の住居である。おふくが戸口で申し訳なさそうに告げていた。
おっかさんとは、日本橋通旅籠町の
なにかわかったら知らせることになっていたのだ。
「先生の都合がよかったら、明日改めてって」
「わかりました。手間をかけましたな、おふく殿」
「手間ってことはないけれど」
おふくも花六軒長屋の住人だ。実家の福籠屋へは、通いで手伝いに行っている。
「ね、陽堂先生」
おふくは十五。色白の、母親に似た器量よしだが、まだまだ頬がふっくら丸くあどけない。帯とあわせた緋縮緬の髷かけと、さっぱりとした縞の前垂れが、年相応に可憐である。
おふくは、さっさと座敷に上がり、探るような目で言った。
「最近、町で噂を聞くんだけど」
「噂とは?」
「どこかのお旗本から大事な壺が盗まれたっていうやつ。なんでも東照神君さまから頂いた壺なんだって。それって、もしかして、梅乃さんとこのこと?」
興味津々だ。
「壺、ですか」
「そう。夜中に笑いだす壺だって。ほんと不気味よね」
陽堂は、思わず噴き出した。
「なに? 陽堂先生」
おふくは、むっとしたように一筆の眉を寄せる。
「すまん、すまん。ほかにどんな噂があるか教えてもらえないか」
「あたしだって、笑う壺って妙だと思うのよ。でも、それが一番まことしやかで……、ほかにって、ああ」
と、笑顔になる。
「お旗本から盗まれたっていうのと、神君様から頂いたってのは一緒。でも、物がいろいろあったかも。あたしは壺だと思うのよ」
と、おふくが挙げたのは、伊万里の皿、茶の湯の天目茶碗、仏様の掛軸、曰くのある鎧一領と刀、赤子の若殿となんでもありだ。
「あとひとつ。盗まれると大変なことが起こるっていうのも一緒かも」
「大変なこと?」
おふくは強く頷く。
「すごく悪い事が起きるって。それって地震? 火事?」
今戸の対岸は、隅田川の中洲を挟んで隅田堤となる。春には桜並木が美しく、昼夜花見客であふれ返る。
すでに五月。薫風が吹く。
寺社地が多く風光明媚なこの地には、富裕な僧侶や町人が、こぞって別宅、寮を設けていた。
南町の町廻り同心堤清吾と、二木倫太郎は、その今戸町にいた。小網町河岸の廻船問屋和久井屋の寮で、人を待っている。
和久井屋こと
先般の、旗本誘拐に絡んだ〈白〉騒動で知己となり、その後もなにかれと便宜をはかってくれていた。
今回も、静かな場所を探していると相談したところ、二つ返事で自寮を提供してくれたのだ。
事件は失せ物。
上司の南町奉行より、旗本大久保家の消えた掛軸の探索を命じられている。
関わりのある家人、使用人、出入りの商売人から、それぞれ話を聞くつもりだ。
昨日は、表と奥、それぞれの用人にご足労頂き、なだめながら聞き取った。
今日は二日目である。
互いに顔を合わせぬよう、時をおいて寮を訪ねるよう手配していた。
午過ぎに、本日二人目の駕籠が勝手口に着き、
駕籠へは待つように告げ、木戸を潜る。
背筋がぴんと伸びた若い女は、わずかに緊張した後ろ姿を見せて、奥へと入って行った。
(続く)
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