19話 お凛の天敵

 ところは、深川八幡別当べっとう永代寺塔頭たっちゅう吉祥院。

 白書院の下段の間で、武家二人が相対していた。


「多忙のところを、わざわざご足労をおかけした。越前殿に、折いってお頼みしたい儀がござってな」


 ひとりは加納久通。

 八代将軍徳川吉宗の御側御用取次おそばごようとりつぎである。つまり、将軍様の側近中の側近だ。


 もとは紀州徳川家の家中であったが、吉宗の宗家相続とともに国許を離れ、直参じきさんとなった。近年禄高が加増され、相役の有馬氏倫うじのり共ども万石の大名となった。が、穏やかな為人ひととなりに変わりはない。


「なんの。お気になさいますな」

 もう一人いちにんは、南町奉行大岡忠相ただすけであった。

 五代将軍綱吉より仕え、順当に役職を歴任したのち、吉宗に町奉行として抜擢された。

 江戸の防火体制を整え、小石川養生所の設立、米価対策、関東地方御用の拝命など、吉宗の政策を陰日向から支えてきた能吏である。

 大岡は、加納が話を切り出すのを待った。まつりごとに関わる話しであれば、登城時に行えばよい。それをわざわざ城外の寺社に呼び出したのだ。


「この寺は、実は上様が紀州様であった頃から、ゆかりがありましてな」

「左様ですか。よい庭があると聞いておりますので、ぜひ拝見したいものです」

「住職も喜びましょう」

 二人は、しばらく黙したまま、茶を啜った。

 その庭のある奥の方からは、かすかに水音が聞こえて来る。


 ところで、としばらくして、ようやく加納は切り出した。

「先般の賊の一件では、支配を越えての尽力、上様もさすが越前よと、いたく感じいっておられたご様子」

「左様でございますか。勿体ないことでございます」


 かつての驕傲きょうごうな振る舞いが元で、幾人もの旗本が攫われ、晒されるという事件が起きた。

 賊は〈白〉と称して世の喝采を浴び、結局は逃げおおせた。

 悪行を重ねた旗本の後始末は、密かに吉宗自身が裁断し、〈白〉と称した賊、〈閻魔の狐〉は、密かに今も町奉行所が追っている。


「その件にも関わる、ある人物を調べて頂きたい」

「調べる、とはどのようなことを」


 大岡は穏やかに問い返した。吉宗に最も近い人物が調と言うのだ。


為人ひととなりを。気質、交友、なんでもよい。どのような人物なのか、なにを望んでいるのか、先般の事件にどう関わっていたのか、それを調べてもらいたい」


 大岡は、「なぜ」と問わなかった。理由なく頼みごとをする相手ではない。

 加納は、常になく念押しするように言った。


「これは上様は預かり知らぬことでござる。この加納、一人の判断でござってな」

「承知いたしました」


 加納の吉宗への深い忠誠心を知らぬ者はいない。いずれ理由は明らかになるだろう──大岡は納得した。


「信頼できる配下の者に調べさせましょう」

「くれぐれも内密に願いたい」

「お任せください。して、その者の名はなんと」

二木ふたき倫太郎、と。深川の長屋に住居していると聞く」

 そう告げる加納は、なぜか穏やかな笑を浮かべている。

「できるだけ、本人にも悟られぬよう願いたい」

 大岡は、その名を心に刻んだ。




「倫太郎、行くよ」

「私も行きます!」

 佐々凛が勝手に戸口を開けると、二木倫太郎の同居人兼侍者、里哉が中から飛び出すところだった。

「あれ、お里坊。どうしたの?」

ではありません」


 佐々凛は、医者である。生家は高名な町医者だが、「あれは医者というより商人あきんど」と、いつも顔をしかめる。

 年の頃は二十歳を少し出たあたり。細い身体に目ばかり大きな容姿で、よく知る真慧しんねに言わせると、「あいつは栗鼠りすだ」。怒ったら手をつけられない。


 しかし、医者としての腕は確かで、本道(内科)だけではなく、長崎へ留学した兄から、蘭方外科についての手解きもを受けていた。


「これから小石川養生所へお出かけになると伺ったので、私もご一緒したいのです」

「あたしは、構わないよ」

「ありがとうございます!」


 里哉は、元服したばかりの十六だ。聡い澄んだ目に鼈甲べっこう枠の眼鏡をかけ、色白の頬に片笑窪が浮かぶ。


「お凛、お里は新しい学問が大好きだ。戻らないと言い張るかもしれないぞ」

「倫太郎様、それは絶対ありません」


 里哉と並んで立つのが、二木倫太郎。この三月より長屋の住人となった。

 すっと伸びた背筋と凛々しい面立ち、いつも面白がっているような明るい目が特徴だ。

 今朝も、本人の言うは健在のようで、これから小石川の養生所へ見学に出かける。お凛から話を聞いて、ぜひこの目で見てみたいと思ったのだ。




 小石川御薬園の養生所は、貧窮者のための施療院である。

 きっかけは、町医者小川笙船しょうせんの目安箱への投書であった。吉宗は大岡忠相へ検討を命じ、結果、町奉行所のもとで笙船が肝煎役となり、御薬園内の敷地に開設することとなった。

 当初はあらぬ噂がたち苦労もあったが、今では江戸市中の貧民対策として、大きな成果を上げている。


 その小石川は、深川から二里(約八キロメートル)余り。日本橋を渡って北西へ行く。坂と武家屋敷が多く、小石に沿っては田畠も豊かだ。

 賑やかな町人地を離れ、緑あふれる風景に、里哉はどこか嬉しそうだった。


「御薬園は、五代様(綱吉)の御殿跡にあると聞きました」

「元々はね。今の公方くぼう様になってから、敷地がとてつもなく広がったから、お里坊は迷子にならないように気をつけないと」

「だから、そのはやめてください」


 お凛は倫太郎を真似てか、里哉の頭をぽんぽんと撫でる。


「じゃ、なんて呼べばいい」

殿、ではどうでしょう」


 真面目に返す里哉に、お凛は身を折って爆笑した。

 その時である。


「お凛どのではないか」

 延々と続く薬草園の塀の角から、若い男が現れた。丁度、曲がろうとしていた角である。

 年の頃は、同じか少し上。小袖に袴、黒塗りの脇指を帯びている。片手に持ち手の付いた箱を下げ、ふところから覗いているのは書物のようだ。お凛と目が合うと、実直そうな太い眉が、きゅっと締まった。


 お凛はというと、こちらもぴたりと足を止め、全身で戦闘態勢に入る。二匹の猫が、毛を逆立てているかのようである。


「あんたか」

。お凛どのこそ、お久しぶりです。私はこれから先生の代診で本郷へ行ってきます。、ご一緒しませんか。それから私の名は、森島四郎です」

「知っている。ありがとう。行かない」


 お凛は眉ひとつ動かさず、憮然とした表情で、森島と名乗った男の脇を通り過ぎた。

 倫太郎と里哉は顔を見合わせ、お凛のあとを追う。

 すれ違い様に会釈を交わして道を曲がると、お凛はその場で仁王立ちになっていた。


「なんだ、あの態度は!」

「あの男と何かあったのか?」

「ない」

「一体どなたですか」

「森島四郎。奥医師の桂川甫筑ほちく様の息子だ。末っ子は好きに生きてもよいとかで、小川先生のところで本道を学んでいる。総じてぬるい奴だ」


 どこかで聞いたような話だと思った。それを察したか、お凛は即座に言い放つ。


「倫太郎。あたしは、自分で稼いでいる」

「うん。お凛はえらい」

「うるさい」


 明らかに八つ当たりをして、お凛はずんずんと先を急いだ。

 三人は鍋割坂を登り切り、ようやく小石川養生所の表門に立った。


 養生所の敷地は千坪。およそ百人の病人が施薬を受けている。

 お凛は番小屋に声をかけて、杮葺こけらぶきの長い建物ではなく、敷地の奥へと向かった。小さな稲荷社と住居が一棟。そこが肝煎職である小川家の住居であった。


「小川先生、凛です!」


 元気よすぎる訪いに、しかし返事はなかった。


養生所あちらかな」


 戻ると、番小屋あたりでなにやら押し問答をしている姿があった。こざっぱりとした身なりの十二、三の少年だ。養生所の中間へ、声高に訴えている。


「どうした?」

 放っておけないのが、お凛である。

「ととさまの具合が悪いんです! こちらなら、いいお医者にすぐに診てもらえるって」

 近所の町医者から聞いたというのだ。

「ここでは往診はしていないよ」

「そんな」


 入所するには手続きが要る。外来診療もしていない。

 騒ぎを聞きつけて、常駐している同心らが出でこないうちにと、お凛は少年の肩を押した。


「あたしは医者だ。診てあげるから、このまま行こう」

 少年は、びっくりしたように目を見開いた。医者は、初めてらしい。


「この先生は腕利きだ。安心して大丈夫だぞ」

「お凛さん、よろしくお願いします」

 番小屋の中間が、ほっとしたように頭を下げる。時折こうやって、診てくれと病人や家族が訪ねてくるのだ。

「引き受けたから、あとで小川先生にあたしが来たこと伝えておいて」


 少年は、一気に気が抜けたのか、その場に座り込んでしまった。




(続く)


 

 

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