第25話 トラウマ

 燈葉の横をすり抜け、下の階に降りたところで奏斗は落ち着きを取り戻した。

「もう大丈夫」

 まだ腕を引っ張っている颯斗にそう言い、自分の気持ちの弱さに嫌気が差す。颯斗は腕を離すと、大袈裟な溜め息を吐いてみせる。

「――奏斗。そんなに落ち込むな。こっちが悪いことをしている気になるだろ?そうじゃない。あの燈葉が悪いんだ。そこをしっかりしていないと、外に出た時に困るぞ」

 まさか自分が奏斗に説教をする日が来るとは思いもしなかった。が、しっかりしてもらわないと、この間違った社会を正すことなんて不可能だ。本当に燈葉の思い描くように動いて終わってしまう。

「そうだな。でも」

 あの薄暗い廊下の下の階は、丁度空白地帯のように何もないところだったが、ここから先が問題だ。どう頑張っても一般職員と出会うことになる。燈葉は一般職員にこの逃亡劇を伝えているとは思えない。このビルから問題なく出られるのか。それを考えなければならなかった。奏斗の心にはまた弱さが出て来てしまう。ビルの見取り図によると職員もあまり使わない通路があるようだが、それが見当たらなくて困ってしまった。どうもこの五年の監禁生活で判断力が鈍っている。

「ああ、いたいた」

 そこに呑気な声がして二人は驚く。完全に油断していたせいだ。

「何だ、尊か」

 そこにいたのは特殊メイクと制服で変装した尊だった。手には段ボール箱を持っていて、何か解決してくれるなと期待できた。

 なにせ颯斗も一般職員に出会ったらどうすればいいのか悩んでいただけにほっとする。一応、颯斗は情報管理課にサイバー攻撃をした罪で捕まっている身だ。追われるのは奏斗と同じである。

「ここまですんなりと来れたようで良かった。あの特殊地帯に出入りするのは何かと難しいからな」

悩む二人とは対照的に、ここから上の方がセキュリティが強くて大変なんだと言う尊はどこか頼もしく見える。が、こちらも相当危険なことには変わらない。

「その恰好でもいつ見抜かれるかハラハラものだろ?」

 気になって颯斗が訊くと、まあ一応は偽造IDがあるから大丈夫だろうと頼もしい答えが返ってくる。が、あまり自信はなさそうだ。

「やはりこの通路を通るのが無難か?」

 意見を求められる相手が出来たと、奏斗は早速ファイルを持ってきた尊に質問した。どこを通っても一般職員と出会う確率はゼロではないが、この裏通路のようなものを通るべきではと思うのだ。

「どうでしょう。それは迷路のような構造な上に、見つかったら逃げ場所がないです。簡単なのはこの制服。これを着て堂々と通過することでしょうね。俺もこの辺りのID認証が必要な場所では緊張しますが、その他のところでは疑いの目で見られることもないので安心して行き来できますよ」

 尊はそう言い、持っていた段ボール箱から二人分の制服を取り出した。ここで出会えるようにやって来たのも、着替えるのに丁度いいと判断したためだ。

「それは」

 奏斗の顔が思い切り引き攣る。その制服を着た燈葉が怖いと思っていたが、自分がそれにそでを通すとなると嫌悪感が先立つ。やはり制服そのものが象徴的で嫌だった。

「相当トラウマになっているな」

 固まってしまった奏斗に困惑する尊に、説明するように颯斗は指摘する。どうやら奏斗は燈葉だけでなく制服そのものにも過剰反応するらしい。それは一般職員と出会うかもしれないところに進むことに躊躇いがあるはずだ。

「まあ、当然だよね。それを着た燈葉が俺の研究室に現れた時、総てが狂ったんだ。怖くて仕方がない」

 奏斗は格好をつけてももう遅いからと、開き直って告白する。その言葉に、颯斗と尊は何も言えなかった。

「それは着れない。俺にとってそれは、管理された生活の象徴そのものだ。自由がなくなった日の象徴と言い換えてもいい」

 だからどれだけ困難であろうとこの通路を通ると、奏斗は申し訳なさそうに付け加えた。弱いとこれから困る。先ほど颯斗に注意されたというのにすぐにこれで、本気で自分が情けなくなってしまった。

 しかし、その告白に颯斗は再び注意が出来るはずがなかった。息苦しい世界の象徴。それは颯斗にとってはIDカードだった。それと同じ思いを、いやそれ以上に息苦しい思いをして生きている奴がいたのだと、改めて情報管理課が憎くなる。

「まあ、それは想定の範囲内ですから大丈夫です。朱鷺さんもそれは解っていて、迷わない最短経路を調べてくれています。一先ず、これを起動してください」

 尊もその言葉の重さが解り、さっさと制服を段ボール箱に仕舞った。そして代わりにタブレット端末を取り出して渡す。

「これは」

「本当は使わないに越したことはないと用意していたものです。これを使うと確実に燈葉にどこから出るか知られる可能性があります。が、向こうが仕掛けた逃亡劇なので、まあ、すぐに捕まらないでしょう。GPSとこちらが用意したセンサーにより、地下の下水道までしっかりと導いてくれます」

 尊は説明しつつも、この情報が管理されている中でネット経由のこのシステムを使うことに抵抗があった。どうにも燈葉の都合のいい方向に進んでいるとしか思えない。

「地下の下水道って、あのSDカードを回収していたところか」

 うわあ、あそこに出るのかと颯斗は嫌になる。あの強烈な臭さは二度と味わいたくないと思っていたのにと、本気で顔を顰めた。

「SDカード。あれも、燈葉の思い通りなんだろうな」

 タブレット端末を起動しながら、奏斗はあれも失敗だったと反省してしまう。あれで朱鷺を危険な目に遭わせることとなったのだ。さすがに悪いなとの気がする。

「反省すんな。あれがあったから、何も知らなかった俺たちはお前を救おうと思ったんだからさ」

 だから少しは自信を持ってくれよと、颯斗は端末を覗き見ながら笑った。なるほど、要所要所がポイントとして赤点で表示されていて、ファイルの地図より見やすい。しかも悩まなくていいという特典付きだ。

「まあ、誰かに伝わったというのは気持ちとして助かるが」

 あれをこいつらも見ているのかと、元気になってみるとそれはそれで恥ずかしい奏斗だ。あんな必死に訴えている姿、今ならば絶対に出来ない。精神的に追い詰められているというのは凄いものだな、と他人事のように思ってしまう。

「それを起動した時点で朱鷺さんには位置情報が伝わっています。早く進んでください」

 尊はそう言い、自分も脱出に向けて動くと段ボール箱を抱えて去って行った。まだやることがあるのだ。二人と一緒に裏通路を進むことは出来ない。

「だとよ。行こう」

 颯斗は最初の点がなんと壁の一部を指していることに驚きつつも奏斗を促す。

「ああ」

 色々と動き始めているのだ。自分ではもう止められず、その流れに身を任せるしかない。燈葉の思惑通りになるか、それとも朱鷺たちの企むが勝つか。自分は見届けるだけなのだ。それを実感した奏斗は、もう泣き言は言わずに赤い点が示す壁を探し始めた。




 その頃、燈葉は主のいなくなった最上階の部屋で電話をしていた。相手はもちろん、継母の綾瀬遥香だ。

「奏斗が動き出しました。そちらはどうですか?」

 ちゃんとやっているぞと、燈葉は不機嫌に言う。それはここで閉じ込められている奏斗と変わらない態度だ。

「こちらは順調だよ。奏斗が動き出したことで私もやりやすい。早く支配者としての穂積奏斗を見たいものだな」

 そんな不機嫌など気にせず、遥香は楽しそうに言った。この実験の根本を考えただけあって、燈葉以上にようやく動き出したかとの思いがあるのだ。

「支配者。そうですね。貴方にとって理想の科学者は、奏斗ですものね」

 燈葉は嫌味のように言ってしまう。はっきり言って、燈葉はその事実が気に食わない。これでは奏斗に二回も負けたようなものだからだ。一度目は大学時代に、そして二度目は、こうして支配者として使われるのは誰かという問題でだ。

「そうだな。ああいうタイプは科学者のイメージに合いやすい。それだけに使い勝手は抜群だ。もちろん、その頭脳も評価しているがね」

 しかし、遥香はますます不機嫌になっていく燈葉が楽しくて仕方ないとばかりにそう付け加えてきた。本当に質が悪い。ちなみに人生で初めて敗北を感じたのはこの遥香だ。これほど頭がいい人がいるのかと、再婚相手として紹介された後に驚かされたものである。

「それではしっかりと手綱を握ってください。政治家たちに納得させるのはそちらの仕事ですから」

 色々と思い出して腹が立つと思いつつも、燈葉は次の段階に進めてくれと用件を伝えた。

「それは大丈夫だ。さて、今まで頼りきりだった我々の思惑を知ってどういう反応をするか。楽しみだな。まあ、腰を抜かすことだろう」

 すると任せろと遥香は請け合う。その男勝りな言い方に燈葉は相手する政治家たちも大変だなと同情してしまう。

「ようやく我々が理想とする世界に近づきましたね」

 しかし色々と飲み込み、燈葉はそれだけを言った。これは紛れもない事実だ。

「そうだな。科学の力を思い知らせ、さらにはどれだけいい社会が作れるかを示せる」

 それに遥香も真剣な声で応じる。そうだ。ここまで破壊したのは新たな理想の社会を目指すためだと燈葉は気を引き締めて電話を切った。

「勝負はここからだ。支配者が奏斗になろうと、俺が勝つことには変わらない」

 そこに奏斗がいるかのように、燈葉は鋭い声で言っていた。

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