November
8:1 初代教皇はノアを殺す
「…どうしたものか」
ノアは風呂に浸かりながら、この先のことを考えていた。赤の果実を解散すると言い切ったあの日から、同盟のグループチャットは動く様子がない。恐らく誰もがこれからどうすればいいのか…と路頭に迷っている状態なのだろう。
「ゼルチュはレーヴダウンに所属していた。それを踏まえれば一応仲間である七元徳と面識はあるに決まっている。けれどスロースたち…七つの大罪はゼルチュの敵だ。どうして敵対しない?」
七元徳と七つの大罪は敵同士。
そしてゼルチュと七つの大罪も敵同士。それなのにまるで"我が子"のようにSクラスの生徒を誇っていたゼルチュ。あの反応がノアの中で引っ掛かると同時に、前々から考えていたエデンの園には裏があるという説の可能性が強くなる。
「考えるだけ無駄…か」
ノアは浴槽に張られた湯船に写る自分の顔を見た。
思い返してみれば、自分の顔なんてこうゆっくりと見たことがない。そんなノアが初めて自分自身の顔をまじまじと観察をして思ったことは、
(ああ…俺ってこんな顔だったんだな)
という何とも味気のない感想のみだった。彼は「何をやっているんだ俺は…」と湯船に思いっきり顔をつけ、すぐに顔を上げる。
「ノア」
「――!!」
顔を上げれば浴槽のすぐそばで先ほどまでいなかったはずのルナがノアのことを見ていたため、彼は一瞬だけ身体を仰け反らせて驚いてしまう。
「…何をしているんだ?」
ルナの格好は"復讐"という文字が書かれたTシャツに短パン。いつも通りの格好だというのに、彼女に対しどこか不気味に感じてしまいノアは眉間にしわを寄せていた。
「私が幸せになれる話があるんだよ」
「幸せになれる話? 悪いが風呂から出るまで待っててくれない――」
「今すぐノアに聞かせないと私が幸せになれなくなっちゃうから早く出て」
幸せになれなくなるというのはどういう意味なのか。ノアは「やれやれ…」とルナを風呂場から追い出しつつ、その幸せになれるという話を聞くために素早く脱衣所で身体を拭きながら寝間着へと着替えを始めた。
「話してもいい?」
「おい、まだ着替えが終わって――」
「それぐらいいいじゃん。私の幸せのためだと思って」
まだ完全に寝間着へ着替えられていないというのに、ルナは待ちきれない様子で脱衣所へと入ってくる。ノアは駆け寄ってくる彼女に頷きながら「分かった分かった」と幸せになれる話とやらを求めた。
「じゃあ話すね。まずノアに聞きたいんだけど私にとっての幸せって何だと思う~?」
「家でぐーたら生活を送ることか?」
「う~ん…それも正解だけどね~? もっと幸せに感じることがあるんだ~」
「…お前、大丈夫か?」
ルナは両手を背中に隠し、身体を左右に揺らして楽しそうにしている。ここまでウキウキ気分の彼女を見るのは初めてだったノアは、どこかに頭をぶつけたのではないかと心配をしてしまう。
「正解はね~? 皆と楽しく過ごすことだよ~!」
「まぁ、お前らしい答えだな」
「皆で海に行ったり~! お買い物したり~! 一人よりも皆がいてくれた方が楽しいんだ~!」
ノアはルナが仲間と過ごすことに対してここまで幸せに感じていたとは思わず、以前言い争いをした際に「平和ボケ」と罵ったことを少々反省する。
「だからね~? これからもみんなで楽しく過ごして~! このエデンの園でみんなで生き残って~! この世界が戦争のない平和な世の中になってくれればいいな~って!」
「そう…かもな」
ルナのその言葉で彼は自分が間違っていたんだと思い知らされた。どうしてこうも簡単に諦めようとしたのだろうか。赤の果実は決して遊びボケているだけの仲間ではない。共に戦い、共に話し合い、このエデンの園で生き残ってきた戦友じゃないか。
「ありがとう、お前のおかげで目が覚めた気がする」
初めてルナに感謝の言葉を述べたノア。
照れくさそうな振る舞いを見せる彼を眺めるルナの笑顔は、
「――っていうのが"ルナ"にとっての幸せ」
一瞬で消え失せ、無表情のまま凍り付いた。口から出ているのはあのいつもの無邪気で可愛らしい声ではない。相手の威厳を、相手の強さを、相手の心を…すべてをひねり潰すような"コエ"。
「…ルナ?」
「じゃあ次の質問をするよ。私、"初代教皇"にとっての幸せは何でしょうか?」
その声に聞き覚えがあった、その表情に見覚えがあった。
ノアはゆっくりと口を開き、彼女の正体をこう呟く。
「
ルナではなく初代教皇としての彼女。
それが現れていることを察知したノアは、目を細めながら教皇の顔を見つめた。
「早く答えてよ
「…家でぐーたらすること、だったりするのか?」
「アッハハ! まーだ私のことをルナとして見ているの?」
初代教皇は狂気に満ちた笑みを目前まで迫らせる。
「ねぇ分かるでしょ? 分からないの? ねぇ? ねぇ?」
「そんなの、考えたこともない」
「そっか。じゃ、教えてあげるね。教皇としての私が望む幸せは――」
教皇が今まで背中に隠していた両手を出す…と液体状のものがノアの足を伝って脱衣所の床へと流れていく。
「――あなたの死だよ」
ルナの手に握られていたものは銀色のナイフ。
それがノアの腹部に深く突き刺されていた。
「これ…は…」
「あなたは一回これを使って、入浴中のルナを殺そうとしたよね?」
ルナがアニマによって精神的な疾患を負わされ、戦うことに恐怖を抱いてしまったあの時期。ノアは教皇に対する復讐心を抱いていたことで、無抵抗な彼女を殺したいという葛藤に襲われた。
「この、ナイフ…お前が置いて…」
「せいかーい。でもちょっと違うのはね? これは私が
よく考えてもみれば脱衣所の棚にナイフが置かれているのは非常識なこと。ノアはその時こそ疑問に思わなかったが、ルナが隠していたとなれば話の辻褄が合う。
「くっ…再生を…」
「あ、そんなの使えないよ?
「おまえ…何を…した?」
「救世主は知らないと思うけど…。創造力は肝臓に貯蔵されて生み出されているんだよ?」
ノアは再生を使おうとしても、上手く創造力の流れを掴めない。痛みに慣れていたとしても肝臓に損傷を受けた際の最善の行動は初見のノアにも分からなかった。
「死は救いであり救いは死。私の幸せはあなたの死で、あなたの幸せは私の死」
「ごふっ…!?」
教皇は何度も、何度も憎しみを込めてナイフをノアの肝臓に突き刺す。
「死んじゃえ、消えちゃえ、逝っちゃえ、飛んじゃえ」
彼女の中の教皇は消えているわけじゃなかった。所詮、ルナという皮を被った教皇に過ぎなかったのだ。今までそのことに気が付かなかったことに、ノアは血反吐を吐きながら後悔する。
(まず…い…)
教皇が自分を殺した後にどうするのかなんて分かっていた。
「幸せなんて虚栄に過ぎない。私に必要なものは幻。目の前の現実を隠し通せる大きな霧という名の幻影。それがなければ私は消えてしまう。消える? どうして私が消える? 消えない、私は消えない。消えてはいけない。私がこの世界を導く。導いて、導いて、その先に待つのは何? 分からない、分からない。何も分からない。私はどうして戦う。戦いたいから戦う? 戦わないといけないから戦う? 戦いに、意味なんて、ある?」
独り言のようにぼそぼそとひたすらに呟き、ひたすらにノアの腹部にナイフを突き刺す。その姿は狂気。教皇は初代救世主であるノアを殺すことしか頭にない。もしそれを達成してしまえば、もしそこでノアが死んでしまえば、残された教皇は間違いなく、
「アッハハハハハハハーー!!!」
――目的を失いそこで自我が崩壊する。
(そんなの、笑えねぇよ)
ノアはかき乱される精神を無理矢理落ち着かせ、すべての創造力を右手に集めた。
『それ以上の力を出そうとすれば、自滅するだけだぞ』
スロースが教皇に向けてそう言っていたことを思い出したノアは、教皇の腹部にある肝臓付近へとその右手を突き刺す。
「
「アッハハハハハーー!!」
「この勝負は――」
そして教皇の創造力を限界まで強引に引き出すために、ノアは自身の創造力を限界まで向上させ、
「――引き分けだ!!!」
教皇の肝臓にそれを流し込んだ。
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